原子爆弾救護報告書:永井隆
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原子爆弾救護報告書:永井 隆
   
 

原子爆弾救護報告
(昭和20年8月~10月の救護活動についての学長あての報告書)
昭和20年8月~10月
物理的療法科助教授第11救護隊長  永井隆

西森一正

 内容概要

 原子説より発展した原子物理学は新なる動力原として原子エネルギーの解放利用の可能を既に実験的に証明してきたのであるが、米国科学陣はついにこれが兵器化に成功し、昭和20年8月6日広島に第1弾を投じ、次いで8月9日吾等が頭上に第2弾を投じ、大学を中心とする長崎浦上一帯の地を潰滅し、日本をして一挙敗戦国に顚落せしめた。ここに簡単に原子爆弾の原理と爆撃の実況を述べ、一般放射線障害の概念を略記し、次に本隊の行動を詳細に物語り、西浦上、三山町に救護班を推進し、この附近の傷者について経験した事を記載した。ここで吾々は、125名の原子爆弾患者を診療した。その治療延日数は1829日である。開設期間は58日間。従業隊員は12名である。死亡率は23%であった。症状を観察し、その発現期により、即発性、早発性、遅発性、晩発性にわかち、又外傷、類火傷、混合傷、早発性消化器障害、早発性血液障害、遅発性血液障害及間接的障害を記載した。更に治療法として、自家移血刺戟療法を始めて試み特異な卓効を発見し多くの重症者を救った。又鉱泉療法を実施し、これまた卓効を見た。即ち、自家移血刺戟療法では治療日数を対照例に比し、2週間縮少し、鉱泉療法ではやはり2週間縮少した。また環境療法を尊重し、患者を自宅静養せしめた。更に爆心地人体障害の将来を論じ、又原子爆弾に関し当時の体験を基とし色々の考察を試みた。最后に余等の行動について厳粛な反省をなし、敗戦の責任を明かにしようとした。結辞としてこれを機会に日本人の純粋科学への理解、放射線、原子物理学への関心を喚起し原子エネルギー平和的利用を熱望した。


INDEX :
 
第1章 原子爆弾に関する想像
  第1項 原子の爆発
    原子説―原子―原子構造 原子核化電子―核内エネルギー―原子の崩壊
  第2項 爆撃の状況
    意外な爆撃―爆撃方法―被爆状況―此世の地獄 夜の情景
  第3項 原子爆弾の作用
    作用の本態―3種の力―粒子団―電磁波―原子エネルギー―速度―到達距離 撒布密度 反射干渉―電離―二次線―水による吸収
     
第2章 放射線障害の大要
  潜伏期―各組織の感受性―組織障害―全身障害
     
第3章 本隊の行動
  第1項 爆撃当日
    被爆―脱出―患者救出―病院炎上―離脱―露営
  第2項 第2、第3日
    朝の情景―薬事附近の救護―行方不明者の捜索―葬式―本部の活動
  第3項 三山救護班
    地勢―移動―診療開始―哀れな一行―隊員相次いで倒る
   
第4章 今回患者の呈したる症状
  第1項 症状の分類
    症状の特徴―直接障害と間接障害―1次的障害と2次的障害―発症期による分類 即発性早発性 遅発性 晩発性
  第2項 各症状の詳細
    即死―類火傷―外傷―精神異常―全身症状―早発性消化器障害―早発性血液障害―遅発性血液障害―間接的障害―其他
     
第5章 今回患者の諸統計
  第1項 全般に関する統計
    患者数―性別―年齢―爆心地からの距離―転帰―治療日数―症状
  第2項 各傷害別に於ける統計
    外傷―類火傷―早発性血液障害―早発性消化器障害―遅発性血液障害―間接的障害
  第3項 死亡者に関する統計
    死亡者総数―死因―性別―年齢―年齢に対する死亡率―死亡期日―生存期間―爆心地よりの距離―環境
   
第6章 治療法
  第1項 環境療法
    環境と予后一実施
  第2項 鉱泉療法
    鉱泉の効果―六枚板鉱泉―効果
  第3項 自家移血刺戟療法
    方法-成績
  第4項 一般対症療法
    火傷―類火傷―早発性血液障害―早発性消化器障害―遅発性血液障害
   
第7章 将来の予想と対策
  第1項 爆心地の居住問題
    原因の究明―対策
  第2項 人体に起こる障害
    遅発性障害―晩発性障害
  第3項 農作物
     
第8章 考察
  第1項 爆弾
    原料―放射線―沈降残留放射能物質―閃光―爆音―爆圧―火災の原因暗黒―火薬爆弾との差
  第2項 人体損傷
    症状の分類―症状の決定線量―距離―濾過
  第3項 治療
     
第9章 反省
  第1項 事前準備
    指導者の誤導―大学
  第2項 爆撃以後
    油断―状況判断―機械搬出せず―救助状況―自己批判―恐怖
     
第10章 結辞
     
附表 患者名簿   省略
     
第11医療隊(物理的療法科班) 三山救護班名簿
隊長 助教授 永井隆(負傷)
副長 副手補 施焜山(負傷)
  講 師 清木美徳(負傷)
技術雇 施景星(負傷)
友清史郎
看護婦長 久松シソノ
看護婦 大石 百枝
橋本千東子
椿山 政子
技術雇 森内百合枝
医専3年 長井 道郎
堤  一真



 第1章 原子爆弾に関する想像

第1項 原子の爆発

原子説
 古来哲学的に又物理学的に物質は海の水の如く連続的であると云う思想と浜の砂の如く不連続的であるという思想とがあった。最近の科学は後者に左袒して物質を細かく分けてゆけばこれ以上分けられない極小単位の粒子になり、之が砂の如くお互いの間に空間を保ち乍ら相集っていると考えられる様になった。これが原子説である。

原子
 地球上の物質は92種類の元素からなっている。この各元素の極小単位を原子と名付けた。この原子の大きさは誠に小さなものである。分り易く比例を以て表わすとここに林檎の表面に1個の原子がある。この林檎を地球の大きさに拡大したならば原子は実大の林檎の大きさに当ると云う位の誠に小さなものである。

原子構造 原子核化電子
 その原子の最も小さくて簡単なものは水素であり、最も大きくて複雑なものはウラニウムである。原子の構造に関しては最初に決定したのは我が国の長岡博士であった。その考え方によれば原子は原子核と称せられる一塊と其の周囲を回転する電子と称する粒子群とからなっている。火薬爆弾に見られる反応は外周電子の作用によるものであるが原子爆弾は核の作用である。
 原子の構造の概要は次の如くである。中性子と称し電気的に陰にも陽にも帯電していない中性の粒子と是と同じ重さを有し陽に帯電している陽子と称する粒子とが非常に密接して一塊をなしている。各元素についてはこの核内陽子の数は一定である。例えば最も簡単な水素原子核は陽子1個を有し、最も複雑なウラニウムは92個を有している。中性子の数は各元素でほぼ一定しているが幾らかの増減がある。核外電子の数は核内陽子の数と等しい。従って1個の原子においては核内外の陽陰荷電の価が等しくて全体としては外部に電気力を現わさない。

核内エネルギー
 総べて同種の電気は烈しく相斥ける力がある。核内では多数の陽子が互に反発して分れ様とする。此の力を押えて之を密接させ保持している所の巨大なる力が核内に潜在しているに違いない。又核外電子も陽帯電している核に引きつけられない為には一定の速度で一定の軌道上を回転していなければならない。この回転力の源も又原子核の中に存在しているであろう。
 若し原子核を破壊し中性子、陽子の粒子結合を分離し以て其中に潜在していた力を解放し取出すことが出来たならば、それは原子核の大きさに比例して素晴しく巨大なものに違いない。例えばマッチ箱の大きさのものから戦艦を粉砕する力を取出す比例になるであろう、之が原子爆弾と云う着想である。

原子の崩壊
 ウラニウムが自然に原子の崩壊をなしてその構成粒子を放出すると同時に大きな力を輻射線として放出することは既に知られている。ウラニウムは崩壊しながらより簡単な原子に変化してゆくがその途中において有名なラジウムになる。このラジウムと其の系統の元素は猛烈に自然変壊をなしつつ強力な輻射線を出しこれが医学的方面に使用されていることは周知の通りである。自然に崩壊する場合でさえもウラニウム、ラジウムは強力な力を出すのだから大量のウラニウムを人工的に一時に崩壊させたならば恐ろしく強力な輻射線を出すに違いない。そこで各国共原子爆弾の原料としてはウラニウムに着眼した。然し原子核を破壊するために他から強力な力をもった粒子をたたきつけねばならない。その装置は極めて巨大なもので戦前までの研究段階においては到底兵器として簡単に応用出来そうにもなかった。開戦以来各国の科学者は衆知を集め簡便軽量な装置で原子核を破壊する方法の発見に努めていた、勿論わが国においてもこれが研究は進められていたが何分専門の学者の数が少いし有能な助手の応召は相つぐし研究費も少かった。それでとうとう多数の学者と12億ドルと云う多額の研究費と軍部の確実真剣な応援とを持っていた米国科学者が先に原子爆弾を完成するに至ったのである。


第2項 爆撃の状況

意外な爆撃
 昭和20年8月6日広島に新型爆弾投下せられ相当の被害ありと公表せられたが細部に亘る発表が無かった為一般の対策も強化せられなかった。従って越えて8月9日長崎が同じ爆弾で叩かれた際には軍も官も民も全く油断していたのである。そして原子爆弾に関心をもっていた余等すら其の夜敵の撒布した「ビラ」に依って原子爆弾と知らされるまでは吾ながら申訳けないが、全くそれとは気づかなかったのである。敵から教えられて日本朝野が始めて驚いたと云うのが真状である。

爆撃方法
 さて此の日は朝来快晴無風で全くの爆撃日和であった。前日以来敵の少数機はひっきりなしに長崎上空を旋回し去ったが之は後で考えると厳密な気象観察及び住民の活動の偵察であった。
午前10時頃には然し九州管区から敵機が脱去して警報は解除された。それまで連続的に警報が発令・解除されていたので長崎市民は解除と同時に各自待避壕を飛出し職場に真剣に働き始めた。
 この時延岡方面より島原を経て死神を載せた敵機は真に巧みに長崎に進入したのである。11時2分爆音を消し滑空により長崎に進入した敵機は8千米の高々度より落下傘と爆弾を投下した。
この敵機は投下後急上昇を行い急速力で避退した。この爆音を聞いた市民は敵の来襲を知り慌てて待避した。然し音波が地面に到達するには一定の時間がかかる。音を聞いた次の瞬間には爆弾が爆裂してしまった。その爆発点は松山町上空5百米附近であろう。
 戦術的観点から批評すれば投下目標は北方に偏位したのでないか。或は大波止附近を狙ったのが過って北方に偏ったものでないかと考えられる。若し大波止附近に投下されたならば長崎市は浦上をも含めて唯一発で全滅したであろう。

被爆状況
 市民は先ず異状な爆音を聞きすぐついで非常に明るい白色の閃光を見た。地表は美しく紅色に光ったという人もある。之を市民は「ピカリ」と名付けたが全く晴天の霹靂の如くピカリと眼を射た。而も爆発点に向っていた者も反対方向を向いていた者も同じく、即ち何の方向を向いていた者も同様にこれを見たのであったから閃光は恐らく空一面に散光となって拡がったものであろうか。爆心近くのものは同時に熱を皮膚に感じた。次で暴風の如き原爆が襲来した。

此世の地獄
 地上一切のものは瞬時に粉砕せられ地球が裸になった!1キロメートル以内では木造建築物は粉砕せられた。鉄筋コンクリートは倒壊した、工場は押しひしゃがれた。墓石は投げ倒された、草木の葉は吹き消され、大小の樹木悉く打ち倒された。戸外にあった生物は昆虫から牛馬人間に至るまで即死し屋内にあったものは倒壊家屋に埋没せられた。ただ「あっ」と叫んだ間に浦上一帯はかく変相していたのである。唯一瞬間に。火点は各所に発生し消火活動すべき生存者無きにまかせて忽ちのうちに一面火の海となり、死者も負傷者もおしなべてこの猛火のため見る見る焼かれてしまったのである。生き残った者も強力な放射線の全身照射を受けて一種の放射線中毒状態に陥って、体力も気力も鈍り戦闘意識を振起することを得ず、活動は極めて不活発であった。余等は今尚酸鼻の極を呈したこの一刻の光景を眼底より払い去ることが出来ない。しかも又之をよく筆に尽すことも出来ない。古く言伝えられた世の終りの姿と云うべき将又地獄の形相とでも云おうか。火を逃れて山に這い登る人々の群のむごたらしさよ。傷つける者また瀕死の友を引きずり、子は死せる親を背負い親は冷き子の屍を抱き締め必死に山を這い上る。皮膚は裂け鮮血にまみれ誰も誰も真裸だ。追い迫る焔をかえり見、かえり見、何辺か助かる空地はないか。誰か救いの手を貸す知人はいぬか、口々に叫びつ、呻きつ息も絶え絶えに這い登る途中、遂にこときれて動かなくなるものが続出する。その最中を狂人となって走り回るものもある。焔近く燃えている倒壊家屋の中より救いを求める声は彼処からも此処からも哀れである。丘の上、谷の道は通り行くに足の踏み場もない程死人怪我人打倒れ、助けて下さいと叫び水を下さいと訴う。一望した胸算用では恐らくは全体として即死者2万人に近かるべく負傷者は数万を越えるであろうと思われた。然も最も悲惨であったのは有力な救護機関であり爆撃時の活躍に満を持して待機していた医科大学が丁度爆心内に在り建造物全部粉砕炎上されたのみならず、学長負傷し病院長即死し以下教職員、学徒、看護婦の殆ど全部死傷して救護機能を完全に喪失してしまったことであった。
 爆撃直後爆心を中心にして巨大且濃厚な雲の如き瓦斯体が発生して全体を覆った。爆心地にいたものはこの為であったか一、2分間全く視力を失った。遠方より望見したものは瓦斯雲の中に多数の電光様小閃光を認めた。この瓦斯雲は次第に上昇して夜に入っても上空に止っていた。2時間後火炎はその極度に達した。局地風が屢々方向を変えた。午後1時頃天気は依然快晴であったがこの瓦斯雲の中から大粒黒色の雨がしばらく落下した。敵機は引続き偵察に来襲した。火炎の勢は次第に衰えたが夜になっても尚炎々と燃え上り且周囲に延焼した。

夜の情景
 日が暮れた、冷たい新月が稲佐山の上低く光った。瓦斯雲は依然空にあり。都会断末魔の焔を受けて妖しく輝いた。風は静ってきた。谷間から「海行かば」の合唱が起り草の中から讃美歌の合唱が続き命絶えようとする人々の心を潔めた。山の上の患者が声を揃えて「担架隊来て下さい」と叫ぶ。隣に寝ていた患者が「水を水を」と求める、気味悪く低空を横切る敵機の下に生残った者と死人とは相並んでその侭野宿したのである。


第3項 原子爆弾の作用

作用の本態
 上述の状況と後で調査した事実から憶測して原子爆弾の作用を次の如く想像する。使用された原子はウラニウム或はトリウム系統であろう。その重量は推量することが出来ない。

3種の力
 この多量の原子が全部同時に破壊せられ巨大なるその潜在「エネルギー」は解放せられた。この爆発によって飛び出したのは何々であるか、余等は粒子団、電磁波及原子内特に原子核内「エネルギー」の3者であると想像する。

粒子団
 第1、完全に原子が破壊して放射された中性子、陽子、電子等、第2、正に崩壊せんとするまで不安状態におかれた原子、第3、原子崩壊によって新生した元素、例えば「ラジウム」の如き放射性の原子、第4、完全に爆発しなかったウラニウム等もとの原子の集塊が考えられる。之等は何れも固形粒子であって、第2以下のものには地上に到着して後も尚永く自然崩壊しつつ放射線を出し続ける能力がある。これが即ち彼の被爆以後、爆心地付近において、長時間放射線を出して人体に影響を及ぼした原因と考えられる。

電磁波
 第5は原子爆弾の爆発瞬間原子内に起った震動が電磁波として放射されたものである。この時の電磁波は種々の波長線の混合であった。熱線の如き長波長のものがあった。之が皮膚に熱感を与え火傷を起した。又可視光線があり之が閃光として眼に映ったものである。紫外線も出たであろう。又レントゲン線、ガンマー線の如き短波長の然も透過が強い電磁波が発生したことが理論上肯定される。
後日発生した諸種の人体障害から見ると、ガンマー線が多量出たではないかと考えられる。又宇宙線類似の線も混在して放射されたかも知れぬ。此等は上記固形粒子線に対して電磁波動線である。

原子エネルギー
 次は即ち原子爆弾破壊の主力たるエネルギー放出である。原子核の中に世界開闢以来潜在していた巨大な力が核の破壊に因って一時に放出される。それは恰も圧縮空気の容器が破れて中の空気が猛烈な勢で放出拡散される様な形である。之が嵐の如き爆圧となって一切を粉砕してしまった!
以上の3種の力が原子爆弾の威力であり、破壊は原子エネルギー、1次的人体損傷は電磁波、2次的人体損傷は粒子団がこれを行ったと想像される。その速度は各々異っている。

速度
 電磁波は秒速30万粁であるから、5百米の上空から地上に届くには、60万分の1秒、即ち全く瞬間的である。従って閃光を見た時には既に電磁波が人体を透過して、之に回復し能わざる障害を与えてしまっていたのである。だから閃光を見てから待避した者はたとえ爆圧による損傷を受けていなくても、既に放射線障害を被っているのである。之等の人が初め無傷であり乍ら後に色々の重い内科的の症状を発病したのはこの為である。爆圧の速度は概ね音波のそれに等しかった。然しそれが等速度であったか、否かは解らない。粒子群の速度は不明である。粒子の種類に依って速度に差異のあることは想像される。

到達距離 撒布密度 反射干渉
 到達距離は閃光が最も大であった様である。撒布密度について考えるに、粒子群は或地点には多く或地点には少く即ち密度が均等でなかったことは理論上も考えられるが実際にも、後日二次的放射線障害患者の発生率も地点により著明な差異が認められた。電磁波、爆圧は概ね各方向等量であったろう。
 爆圧が船形地形の関係上、山腹において反射された結果、爆圧方向は複雑となり、反射圧が夫々干渉して、地上においては掻き回す如き作用を表わした。此の点が平面に対する作用であった広島と異る結果を生んだのであろう。大学運動場において此の干渉を思わしめる処の砂の吹き寄せの一線が見られた。それから山際の家屋では爆圧が爆弾方向からと、山に当って反射して山の方向からと、両方から働いた形跡が見られた。家屋内において、前後2つの轟音を聞いた者もある。家屋内は爆圧で掻き回された処が多い。
 又この爆圧は地面にあたり、反射し地面に平行方向に作用したらしく思われる。即ち爆心地を少し離れた地点の家ではその床下の根太を薙ぎ倒され、又1階の畳を吹き上げられたものが多いし、道路の石塀が路面上を水平に押し動かされ、而も爆心方向に倒れていたのも見られた。西洋式の横臥墓石が水平に移動しているのが多く見受けられた、

電離
 空気中を最初にガンマー線等の短波長電磁波が通過する際、之を電離して陰陽イオンを生じたことは疑いない、次で粒子群が此処を通過した。この粒子群も亦空気中の分子を電離したであろう、一方粒子群は電気的に中性のものもあるが陰或は陽に帯電しているものも多い。従って空気中において之等陰陽の帯電体は或は相結合し、或は相反発して、此処に化学的な反応を起したに違いない。彼の濃厚な瓦斯雲成因の1つは之であろう。又瓦斯雲の中で小さな多くの電気様閃光が見られたのも中和の際の放電であろう。陰と陽との帯電体は斯様にして途中で道草を喰った。然し電気を帯びていない中性子は何物にも妨げられず直線に猛進し強力な作用を地上に発揮した。

二次線
 尚之等の電磁波と粒子群とは空気中を進行中に二次の散乱線を発生する。その二次線も又電磁波と粒子線である。地上に到達したものは従って爆弾から出発した1次線の他にこの二次線が加っている。一般に放射線は物体に突き当ると或深さ透過するが結局吸収されてその作用を表わす。この地上物体に激突した放射線の力は極めて強くその中に進入し其処の原子を破壊し、此所に二次的原子爆発を起した事が,考えられる。被爆当時の観察の際の印象はどうもこの二次的原子爆発が猛烈であったのではないかと疑われたのである。例えば爆心地では焼失家屋に非ざるものの屋根瓦の表面が粗糙になっている。又興味ある1例は電柱に付近の草の影が陰画風に焼き付けられてあった。若し上方から来た1次線によるものであったら、草の影は下の地面に生じたであろう。電柱にうつされるためには地面を線源として下から斜上方に投影されねばならぬ。即ち二次線によったものではあるまいかと見受けられた。

水による吸収
 水の吸収能について興味ある例がある。3人の小児が川で水泳していた。2人は約半米深く水中に潜っていた。1人が丁度浮んで背が水面に現われていた。その時爆弾が炸裂して、先の2人は異状なく、後の1人のみ背に火傷状の皮膚損傷を受けた。又水槽内の金魚が生きていた。中性子は水によく吸収される。この場合主作用を及ぼしたものは中性子ではないかと考えられる。然し熱線も亦50糎の水では吸収されるであろう。


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 第2章放射線障害の大要

潜伏期
 放射線は組織細胞に対し全く破壊的に作用し退行的変化を起す。これが症状として現われるのは一定の時間後であって、所謂潜伏期である。この度も当日は無傷であって後日に重篤な症状を現わしたものが多い。

各組織の感受性
 放射線感受性は組織の種類によって異る。最も強く障害を受けるのは骨髄、淋巴系である。今回も骨髄性の血液障害が著明であった。それに次いで胸腺、生殖腺が犯され易く、この症状も今回認められた。次には粘膜が弱い。今回は消化器粘膜の障害症状が早期に現われた。下痢の如きは殆ど全員之を患い、重篤にして死に到った者も多かった。外分泌腺、毛根乳頭が害われる。脱毛もこの度かなり見られた。皮膚はかなり抵抗があるが、この度即発性に起った皮膚の類火傷は長波長の熱線によるもので、短波長の放射線障害は少し遅く発するかも知れない。中等度のものには肺、腎、副腎、肝、膵などがある。筋肉、結締織、血管、軟骨、骨などは抵抗が強い。最も鈍感なのは神経細胞とされている。然し何分此度は極めて大量の照射であるから、抵抗の強い組織も変化をうけたであろう。
年齢も感受性に関係する。幼児・小児は鋭敏に障害を受ける。1個の細胞についても、それがまだ若くて発育しつつある時期には敏感で、成熟すると抵抗が強くなる。又個人個人の体質も関係する。

組織障害
 淋巴細胞は実によく破壊される。しかし再生力もつよい。脾、淋巴腺、扁桃腺などがこれである。骨髄でもまず淋巴細胞が破壊される。次で骨髄性の細胞がやられ、その次に赤血球系がやられる。余り強く犯されると骨髄は繊維化する。
 生殖腺もよく破壊し月経不順、不妊などが起る、少量では一時的だが大量では永久不妊となる。少量では畸型児を生むことがあり、妊娠中には流産が起る。
 肝には点々、壊死竈を生ずる。膵は分泌減少し、又繊維状瘢痕を生ずる。腎は萎縮腎の像を呈する。機能障害を来たし水の排出が悪くなる。腎臓炎になることがある。肺には肺炎状の病変を起す。各分泌腺はその分泌が減少する。幼小児の骨、軟骨はその成長を阻害される。胃腸粘膜は炎衝を起し、潰瘍を形成することがある。
 下痢は必発症状で、血便、裏急後重、疝痛を伴うこともある。眼は白内障を起す。血液の変化は著明である。凝固時間が長くなる。血小板が減少し、赤血球の溶血がみられ、出血性素因をつくる。白血球は照射直後に少し増加し、後、著明に減少する。それから再び増加して、白血病となることもある。

全身障害
 全身症状は著明である。自覚的には倦怠、弛緩、頭重、食思不振、悪心などを訴える。これを放射線宿酔と云い、即時に起ることがあり、又翌日起ることもある。持続期間は長短あり、2週間にわたることもある。


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 第3章 本隊の行動

第1項 爆撃当日

被爆
 爆撃瞬間に於ける各人の位置は次の通り。永井隊長はラジウム室の自分の机で、古いレントゲン写真を整理して、教材と破棄とに分けていた。施副長は現像室で森内雇と共に現像中、梅津雇は治療機械整備、友清雇、施雇、椿山看護婦は内科地階に撮影機械取付、久松看護婦長は書類記入、橋本看護婦は受付で夫々働いていた。山下、浜、井上、大柳、吉田の5看護婦はちょっと運動場の増産畑へ薯の手入れに出かけた。小笹雇と大石看護婦は欠席である。

脱出
 ピカリ、運命の一瞬!皆はやがて色々な器具の下に埋められた自分の運命を知った。視界は全くの闇で何も見えない。やられたな、目の前に爆弾がおちたな、それにしては、落下音がきこえなかったな、死ぬのかな、怪我をしているな。火が廻ったらおしまいだな、出られるかな、他の連中はどうだろう、など断片的に考える。そして手と足と尻と頭とで彼方此方押して見る。真先に自力脱出したのは内科地階の婦長、友清等の一団であった。顔を出して見ると視力が回復して、もう、内科の裏、レントゲン疎開跡の木材置場は発火している。婦長は含嘲をして1杯水を呑んだ。それから椿山と共にバケツを以て火を消しに掛った。なかなか大火だ。とても2人では防げない。そこへ、受付から橋本が駈けつけて「部長先生が埋った」と叫んできた。「まあ、あんげん太かとば、どんげんするえ」と椿山が云った。それ行けと走り出すと、渡り廊下が吹き飛ばされてしまって玄関へ行かれない。人梯子を作ってコンクリート壁をのぼり、看護婦達は薬局の高窓から飛込んでラジウム室へ駈け込んだ。そこには半身血塗れの隊長が突立っていて駈けつけた部下の肩を叩いて、「よかった」と云った。施副長は現像室で天井の下敷となり、胸を夾まれたが、どうやらこうやら脱出して、「部長先生」と連呼しながらラジウム室に入り、重傷の隊長を救出したのであった。施副長が「森内が埋っとる」と思い出した様に云う。隊長と友清と副長と3人、現像室へ入ろうとするが何や彼や打重って這入れない。のぞいてみても人間の手足はない。呻声ごえも無い。うまく脱出したに違いない。そこへ治療室からよろよろと、梅津が出て来た。皆駈け寄った。これは全身真赤だ。「目が無かばい」と云う。「何言うか、目は有るばい」と施雇が云って、そこへ坐らせた。目の上が10糎も裂けている。その他全身硝子傷だ。皆がかりで薬をつけ、ガーゼを押しこんで三角巾を巻いた。隊長が「山下は」ときいた。婦長の顔色がさっと変った。「外です」椿山が「運動場へ行くと言って出かけました」と云う。「まだそこらにいるかも知れん、探せ」と隊長。橋本と椿山とが5人の見えない友の名をよびながら火の方へ走って行った。その後姿をじっと見送る。山下、井上、浜、大柳、吉田、5人の顔が鮮やかに次々目の前に浮んで、消えた。隊長が右の耳を押えていた手をはずしたら、赤い血の糸がピュウピュウ飛び出している。「部長先生、血が」「うん、知っとる。ガラスだよ」。そこで施副長と婦長が圧迫タンポンを詰めて三角巾で締めた。白い三角巾が見る見る赤くなって、果ては頤のあたりからポタリポタリと滴る。動脈がやられている。「施君、友清、機械はどうだね」「はいッ」と2人は別れて室々へ入ってはガタガタやっている。もうその頃には内科、婦人科、皮膚科などの外来患者が廊下で負傷して、裸体の、血だらけの、皮剥ぎの、煤け顔の、乱れ髪の地獄姿で、そこらにのたうち廻って、吾々の足許へ這い寄って来はじめた。隊長と婦長とが応急手当をしている。やがて外から橋本と椿山とが泣きながら帰って来た。それを迎えて皆暗い気になった。山下らはどこにいるのだろう。もう死んでいるだろうか、今息の絶えるところではあるまいか、目の前にころび、次々に動かなくなる血まみれの傷者を見ながら、5人を思う。「何処もやられています。大変です。病院の真中から火が出て大分燃えひろがり、後の方とは連絡がつきません。大学の方は建物が見えずに火の手ばかりです。町はありません。路は死人と負傷者で通れません」と口々に報告する。副長と友清とが来て「機械はメチャメチャです。管球類は全部破裂、電纜は断線、変圧器は通路を倒壊物で塞がれて引出せません」などと報告する。隊長が腕組みをしていたが「一大事とは今日唯今の事なり」と一言力強く言い、そこヘアグラをかいた。火の手はすでに隣の薬局まで入りこんで、パチパチ音がする。この廊下を職員、看護婦、患者の群が血相変えてゾロゾロ通る。隊長がその群をジロリと睨んだ。皆は隊長の顔を見つめてじっとそのまま立っている。しばらくすると心が落着いて来た。そして、なるほど横を通る慌てふためいた群衆が哀れに見えて来た。隊長が突然例の調子で、ニヤリと笑った。皆つい釣込まれて吹き出した。笑ったらいつか平常心に立帰っていた。「お互のざま見ろ」と隊長が怒鳴った。皆頭をかいて、声を合せて笑った、隊長は靴がみつからなくて、スリッパなのである。誰も防空服装がととのっていない。「さあ、服装を調えて玄関前に集合しよう」と云い、隊長は立ちあがり、のろくさと階段を降りて玄関前広場へ出て行った。皆はそれぞれ自室にとって返した。今度は落着いて室内を見廻した。腹が減っては戦は出来ぬ、と云う隊長の口癖をふと思い出し、弁当包を腰につける事を忘れなかった。玄関へ出て見ると隊長は燃える町を背景に両脚踏ん張って腕組をして突立ち、病院を見つめていた。足許には3人手当を終えた傷者が転んでいる。隊長の出血はかなり派手だ。皆すっかり落着いてその前へ集った。火がゴーッと鳴り熱い風が吹きつける。
 「機械は後廻し、人間を助けよう」隊長が決めた。傷ついた梅津を施雇が背負い、安全な裏山へ登って行く、日露戦争みたいだ。婦長が隊長の装具を何彼と肩にかけさせている。そこへ心配していた森内がひょっこり現れた。1人無事だった、皆一斉に声をあげた。裏から転げる様に婦人科のレントゲン技術員小笹が駈けて来た。「先生」と叫んだ。「よかった」と皆が叫ぶ。「機械は」ズパリと隊長が叱る様に言う。「もうすっかり壊れました」「出せなかったか」「はい、駄目でした」「よし、仕方がない。だが、これからだぞ」「ああ、好かったわ、先生や婦長さんはどうだろうかとそればかり気になって、此処まで火の中を如何潜り抜けて来たか判らないわ」「おい、崎田は」「あら崎田さん(皮膚科レントゲン技術員)」「探して来い」「はい、探して来ます」「僕は最後まで此処にいる。此処が済んだら裏の丘に登る。連絡はそのつもりで取れ」ホッと一安心してゆるんだ小笹の顔がまたひきつり、もんぺの足取りも確かに再び皮膚科目指して火の中へ走り込んだ。1人では心許ないので森内が同伴した。「切角死地を脱して出て来たのに、また危険な中へ行かせて」と皆が思った。婦長が「大丈夫でしょうか」と隊長に云った。「修業だ」と答えられてしまった。ああ修業だ、修業だ、隊員は2人宛組になって傷者の手当にとりかかった。

患者救出
 足の動く者は生命からがらと云った風で裏山へ裏山へと走ってゆく。それは逃げて行くと見るべき姿であった。隊長が傷者の手当の手を止めて、顔を上げては「学生は降りて来い、看護婦は止れ」と度々怒鳴るが、幾人も踏止まらない。敗戦の姿は此処にも見られる。まるで賤ケ嶽に敗れて潰走する勝家の軍勢の様だ。今此処へ敵が上陸するかも知れないが、これでは戦さが出来ないじゃないか。
「学長先生をお救い致しました」。見ると玄関に友清が現われた。その背には真赤な人がおんぶされている。隊長が駈けつけると、白髪も顔も白衣も血に染まった学長先生。気力は確かで、「大変だね、御苦労だね」と申された。此処はもう火で危険なので、施副長が医療嚢をもって護衛し、友清と共に裏山へ岩を登って行った。少し遅れて学長の所の婦長が駈け出し、医員も出て来たので隊長はそれを裏山へゆかせた。内科もバラバラらしい。
 部隊長を中心とする鞏固な団結!これなくしては混乱の中において鮮やかな作業は出来ないのだ。そうしてこの団結は生優しい訓辞や懇親などで作られるものではないのだ。それこそ生命と生命とが裸で打合って、永い年月の後作られて来るものだ。「兵を養う10年、この1日にあり」隊長が独語した。出雲国の方言に混乱喧噪することを「敗軍する」と云うのがある。まさにこの時の光景は敗軍していた。上官は部下を忘れ、部下は上官を思わず、ひたすら我一身の安きを求めて思い思いに走ってゆく。全く大学は潰走したのである。
 勿論文字通り尻に火が着く危険にあったのである。浮足は立たざるを得なかったろう。よろよろと走り出てパタリと倒れる。共にいた者はしばらくそれを助けようとするが、やがて打棄てて走ってゆく。足許から救いを求める。顧みもせず走ってゆく。内科の大倉副手以下学徒20名ばかりが此処に踏止まり、隊長の指揮を受けて傷者の救出に従う。火は病室に進入した。余等は猛火を冒して入院患者を救出し、地下室に避難している傷者をかつぎ出す。担架が破壊されて了って、仕事は手運びだから捗らない。病人は苦しいと云い傷者は痛いと云い、この危険を知らぬものだから、呑気な注文を出して暇どらせる。どうにかこうにか玄関前広場へ傷者を集めた。下の町からも次々這い上ってそれに加わる。衛生材料はなくなった。

病院炎上
 火焔は下の町一面に燃え盛り、折柄の西風に押されて吾等を覆わんとする。病院自体の火災もいよいよ猛烈である。何処かこれだけの傷者を収容する安全な所は無いか、斥候は幾度か各方向に出されたが皆々帰っては何処も火の海、唯裏山ばかり残っていると報告する。だが山へ避難民が集まっている事は戦術の常識、敵機が再び襲うならば山を狙うにきまっている。隊長は暫く空を睨んでいたが、風が少し北に廻り始めた。「患者を裏の丘に上げよ、百米上方の畑だ」と隊長が命令した。普段通る路は壊れ塞っている。岩肌をよじ登らねばならぬ。1人又1人と手運びで担ぎ上げる。運んでいるうちに息の絶える者がある。遺髪を切り取ったりする。水も飲ませて廻る。迷子の親もよばねばならぬ。3時間ばかりこうして働いた。
 患者を全部安全な丘の上の畑に移した。そうして今改めて病院を見ると、既にどの窓も火と黒煙を吹いている。「ああ、治療室が焼けます」「ポリクリ室も火を吹いています」「私の部屋もおしまいです」「三相交流も燃えちゃった」各人が云う。患者救出に時を奪われて、機械を取出す時間を失ってしまった。吾魂として磨いた機械、吾子として親しんだ機械、それが火となり煙となって目の前で昇天してゆく。余等隊員はもう悲しい顔をしてじっと見つめている。数々の思出と、色々の希望とが煙となって消えてゆく。「おしまいだ」と隊長が低い声で言った。女の子たちは涙ぐんだ。
友成書記が地下室からかねて準備の応急糧食を持って来た。固パンや罐詰だ。皆そこへ集り、坐って腹を作った。腹が出来たら気も落着き、力も出た。止血帯の仕直し、三角巾巻き、水のませ、またひとしきり忙しかった。

離脱
 午後4時病院表半分は火に包まれ絶望となった。いよいよ離脱せねばならぬ。隊長が旗を立てようと云い出し、大倉副手が今一度最后の病室へ入り、大きな敷布を取出して来た。それに血潮で日の丸を染め竹竿につけた。医専の長井が白鉢巻姿も勇しく之を押立てた。隊長以下これに従い堂々と此殿軍は燃ゆる病院を去って裏の丘へ登って行った。かくて吾が病院、吾が教室は潰滅したのである。
血で描いた日の丸が火と煙の間を登ってゆく。荒涼たる戦場、空を覆う白い瓦斯雲と黒煙。生残った者はそこらに転がり或は草にかくれ、声もない。意気銷沈とはまさにこれだ。隊員は声をそろえて右、左に叫びつつ登る。「元気を出せ!頑張れ!」するとあちらこちらから「オーイ、頑張るぞー」と応える。手を振る者がある。日の丸を見て漸く気がついたらしい、日本人の心が目覚め、戦場に活気の湧くのが感ぜられた。
 丘の上薯畑に学長が寝ておられた。頭からかぶせてある外套に雨が降って来た。筬島助教授と前田婦長とが坐っている。施副長も傍で働いている。調教授も活躍中だ。隊長が「病院表付近の患者、全部救出完了、物療科は次の作業準備のため下の谷間に集結」と報告した。日の丸の旗は此処に打立てられた。「本部は此処だー。学長は元気だぞー、皆元気を出せー」と声をそろえて四方に叫ぶ。穴孔法山の中腹から「第3医療隊此処だー」と答える江上助教授の声、「耳鼻科頑張れ」とこちらからも報酬する。見おろす病院も町も焔の林だ。ネロが焼いたローマもこれ程ではなかったろう。敵の爆音がまた空を廻る。
 隊長は報告を終り10歩ばかり行くとよろめいた。其処には友清と施とに守られて梅津が寝ている。隊長は脈を見て「大丈夫だ」と云い、また立上ろうとした。顔は血の気を失って真蒼だ。三角巾からダラリと大きな血餅がぶらさがっている。それでも立上ったが、よろよろとしてとうとう芋畑の端にぶっ倒れた。施副長が「頸動脈を押えろ」と云う、婦長が押えた。血管結紮をやろうとするが、創が深くて血管が掴めない。調教授が急をきいて駈けつけられた。顳顓動脈を縛り出血は止った。皆ホッとした。小笹が山の上から泉を汲んで来て飲ませた。隊長が「男は小舎を作れ、女は夕飯を作れ」と怒鳴って、それから眠った。調外科レントゲン技術員金子が負傷した足を引ずりながら、たずねて来て、隊長の枕頭を守った。午后5時である。

露営
 7時露営準備は出来た。谷間の石垣の蔭に板片を並べかけ藁を敷き病室として梅津と隊長とを運びこんだ。鉄兜を鍋にして、南瓜と冬瓜とは美味しく煮えた。大倉副手がまず南瓜を学長に献上して、喜ばれた。畑の中の火をかこんで皆が坐った。元気を恢復した隊長がジロリジロリ、1人1人の顔を見廻し、「生残りはこれだけか」と言った。皆が生れて始めての或感情を覚えた。
 日が落ち、三日月が暫く光った。七難八苦を三日月に祈った山中鹿之助を想う。この今日の苦難を凌げ、これを克服して戦おう。生残った吾等は今こそ光栄の戦士である。
御民吾生ける験あり 天地の栄ゆる時に遇えらく思えば
隊員は力の限り声振り上げて歌う。年来、毎朝の朝礼に斉唱するこの歌、今朝も隊員そろって歌った。今僅かな生残りが歌う。山下よ、井上よ、歌声きいて帰り来い、死につつあらば、この戦友の声をききながら昇天せよと歌う。既にこの世に亡きものならば……歌声の終りは涙であった。
 其処へ薬専から清木教授が現われた。半裸体で角棒を杖について息も荒れている。「おや、生きていましたか」「わし1人じゃ」ドタリと尻餅ついた。「生埋めになった。気絶した。ようやく出て来たんだ。とにかく助けに来て下さい。薬専の壕じゃ、生徒が20人ばかり死にかけとる。注射して下さい、見殺しじゃけん」「まあ南瓜をお上りなさい」「いやいや、生徒が死による、すぐ来て下さいよ」副長、婦長、橋本、小笹が医療嚢をもって行く。清木教授は「大学はなくなった。皆死んじもうた。とにかく偉いこっちゃ」と云い云い婦長から扶けられ、よろよろと再び火の中へ帰って行った。副長と小笹とはそれから浦上方面の状況を偵察に行こうとした。行こうとする道は火の屏風、道をかえると打倒された巨木、隙があると思って足を踏み入れる空地には宙を掴んだ屍骸の群。「山下君―、井上君―」代る代る呼んでは進む。屍体の顔をのぞきながら行く。運動場にも黒いものがいくつも倒れている。呼んでも動かない。何処へ行っても燃えひろがる劫火である。とうとう火に進退両路を遮られ、天主堂の裏山、難民の群の中にまざって夜を明かした。天主堂は真夜中に火を発した。東洋第一という神の大殿堂の炎上。あちらこちら草むらから切支丹達の祈が起った。全くこれは終りに違いない。
 一方谷小舎の方は次々と傷者を収容した。石崎助教授も顔と両手の火傷で負われて来た。福井主事も清木教授に負われて来る。通りがかりの患者が次々と這い込む。結局隊員は火を囲んで夜を明かした。医専の長井と堤とが危険地を通過して県本部に連絡し、夜半に5百人分の乾パンを担いで帰ってきた。
 2回敵機が来て長いこと旋回していた。そしてビラを撒いた。


第2項 第2、3日

朝の情景
 8月10日、悪夢の如き一夜は明けたが昨日の悲劇はついに夢ではなかった。火災はもう大体燃え尽した。全身脱力著明である。朝礼、畑土に立って、東方遥拝、宣戦大詔、御民吾斉唱、青少年学徒に賜りたる勅語、隊長訓辞。今日の任務、薬事付近の患者の手当と、山下ら5名の捜索。直ちに隊は移動する。負傷の隊長と梅津とを扶けて山路を下り又上り、又下る。途中死者と負傷者とが彼方の凹地、ここの垣の蔭に固まっている。漸く江平の峠を越え薬専に辿りついた。全く一変してしまった浦上!大学基礎教室、何もない。唯広広と灰の平地。浦上も家なき褐色の丘になって、朝陽がその上を遠慮なく照りつけている。天主堂が紅蓮の焔を上げて今燃え落ちるところ!隊員はそれぞれ自分の家のあたりを見て声を呑んだ。幾度見直しても何もない。家族は全滅だろう。

薬専附近の救護
 薬専の壕の内外に生徒が倒れている。死んだ者には土を被せ、生きた者には板や布で日覆いをする。手当をするにも衛生材料は昨日費い果してしまった。水を飲ませ、南瓜、粥を炊いて食わせた。大豆を焙って噛ます。「どうだ」とたずねたり「救護班に連絡がつき次第送ってやるからしっかりしていろよ」と元気づけたりするばかり、汽車が大橋まで来て負傷者だけ積んで諌早へ送ると云う情報をきいては大橋まで連絡に出す。傷者が満員で、乗せ切らずに草の上に並べてあるというから、まずやめる。県の自動車を交渉するが今日の処はまずむつかしいという話、県の衛生課長と医師会長とが見舞と視察に廻って来られた。今夜陸軍が救援に来ると云う。皆地獄に仏と喜んだ。隊長が本部へ行き、玄関前に到着したばかりの陸軍病院を見出し、一部を連れて帰って来た。明朝早く患者をこれに委託することに決定した。

行方不明者の捜索
 一方、行方不明隊員の捜索は続けられた。そして婦長が、5人の看護婦らしい屍体を運動場に発見した。
 その夜は壕の中にねる。死んだ友も、死なんとして呻く友も、傷つける者も、元気な者も互に並んで狭い土穴の中に寝る。眠れるものではない。トロトロと時々まどろむ。夜中に婦長が寝言で「大柳さん、大柳さん」と死んだ友を呼んだので皆ゾッとした。
 8月11日、第3日、払暁から患者を病院玄関の陸軍病院に運ぶ。焼残った木片で急造担架をつくったのだが、うまく行かない。倒れた木や、焼けた家を越えて運搬するので4百米の道に1時間かかる。昼までに漸く終る。敵機は絶えず上空に在る。焼跡の火気と太陽と、日蔭の無いのとで焦熱地獄である。

葬式
 午後、山下等教室看護婦の屍体を葬う。山下は顔がその侭、すぐ判った。皮膚は黒焦だ。井上と吉田は僅かに残った衣の端に見覚えがあった。浜と大柳とは身体の大さで見当ついた。大柳の家族が来てこれに違いないと云った。大柳はすぐ火葬して遺骨を家族に渡した。4人は薬専付近までもち上げて仮埋葬をした。葬式をしながら、何辺も防空壕に待避せねばならなかった。土をかぶせる時皆声をあげて泣いた。ここに戦友5名を失う。

本部の活動
 葬式を終ってから本部へ勤務する。学長、高木部長、山根教授重傷で、外科の防空壕内に寝ておられる。祖父江教授、国房教授も重傷だ。梅田、池田、大倉、内藤、清原各基礎学教授、内藤院長は即死、北村、長谷川教授軽傷である。微傷は古屋野教授、無傷は調教授唯1人。当日不在なりしため元気な影浦、高瀬、佐野教授が出て来られて、古屋野学長代理の下で大活躍である。学生、職員の家族が安否をたずねて来て大混乱だ。隊長が、生存者、死亡確認者、負傷者、行方不明者にわけて、学年別、教室別の建札を作らせた。軍隊、警察が出動して、整理、屍体収容、傷者収容に当っている。金比羅に何百人居るやら見当がつかない。大学の教室の焼跡にはキチンと並んで学生の黒い骨がある。
 本隊は古屋野教授から、三山救護班開設の認可を得た。調外科も滑石に開設することになった。
6時幾許かの薬品、繃帯材料、米を担いで全員大学を出発、途中、上野町隊長宅に至る。焼跡に家族の骨が見つかった。これを焼く。又夕飯を食う。路は屍体と倒壊家屋、樹木のため通過困難であり、日も暮れたので、そのまま焼跡防空壕の中に全員眠る。


第3項 三山救護班

地勢
 三山に救護班を設けた理由は次の様なものである。西浦上の東半、三山より発する川に沿う谷は三山町、川平町であるが、これは最近市に編入せられて命名された町名で、事実は全く人家疎らな農村である。畦別当、川床、飛田、大峠、犬継、木場、小谷、六枚板、藤ノ尾などの諸部落が三山町であり、川平、赤水、トッポ水、内平、女ノ都などの諸部落が川平町に入る。主谷の長さ8粁、それに枝谷が1粁位の深さでいくつかある。この谷は爆心地の北方から東に折れている。従って多数の傷者が避難しているに違いない。爆心地とは金比羅山、天竺岳等一帯の高地に遮られており、且、当時の風下に当っていないから残存放射能による影響がなく患者の観察に都合がよかろう。豊饒な農村である上にその産物の需要地が潰滅したので食糧は豊富で患者の栄養療法が意の侭に行われるであろう。最も大きな理由はここの六枚板部落には古来火傷に卓効ある鉱泉が湧出しているのである。これを此度の患者について実験をして見たい。余等物理的療法科がその本来の仕事をするのには、今の状態では、これより外に途がない。

移動
 第4日即ち8月12日、早朝浦上出発、路上には屍体があり路傍の横孔壕には呻声がしている。異臭鼻を衝く。敵機屢々頭上を通過。道に遇う人繃帯している者多く、誰も荷をかついでいる。三山の谷間に入ると視界は一変した。褐色荒涼たる爆心地から此処に入ると、山の緑が目を見張らせる。皆は立止って深呼吸をした。一息毎に身体が潔くなってゆくのを感じた。
 木場郷藤ノ尾に金山事務所跡の1軒家がある、ここを2カ月間の本拠と定める。家下の林を抜け渓川に降りて水浴する。裸になってみると創がいくつも見つかった。気が付いてみると痛い。ズボン下は血だらけだ。清冽な水に戦塵を洗い岩を枕に流れの中に寝ながら空を仰ぐと、両側から夏の繁山が、青空を狭く挟んでいる。白雲が過ぎる。生命感が始めて胸底に湧いた。上って畳の上に長くなると、いつか鼾をかいていた。

診断開始
 午後4時、診療開始、町内会長を訪ねると、既に本人が負傷臥床していて、とにかく沢山の患者ですが、わからないと云う。1軒1軒たずねて廻ることに決める。最初は川平国民学校を救護所に充てる予定であったが、これも破損で使用できない。敵機は偵察を続けているので、多人数1カ所に集め、そこへ出入するのは危険である。環境療法を行うため、各家庭に患者を静養させ、余等救護班が巡回診療をすることにした。軒並みにたずねて廻る、どの家も避難民でひしめいている。どの家にも負傷者がいる。蚊帳を吊った室には必ず患者がいる。蠅除けである。総員掛りで洗滌、手術、繃帯、記註、看護の注意など大活動だ。午後10時までかかって犬継部落を終わる。
 8月13日、暑熱と敵機は相変わらず巡回を妨げる。爆音の度に隠れる。六枚坂から川平全体、行程8粁。中頃衛生材料がなくなったので婦長と椿山とが大学まで補給にゆく。大石看護婦が帰って来て参加した。当日欠席中の小笹雇は自宅で重症を負い、生命覚束ないとのことである。浜の家族がたずねてきたので火葬にして遺骨を渡した。午後10時終了。

哀れな一行
 吾が診療班の歩いている姿は何にたとえられるであろう。おちぶれたジプシーの群が、焼け出されて泊まるべき吾家、吾下宿、吾寄宿舎は無い、着物この着ているものだけ、真に丸裸とも云うべき吾等である。
 見よ、隊長は繃帯で頭を巻き、右手に杖をつき、左手を椿山の肩に支えられてフラフラと行き、清木講師は生埋になった時の胸の痛みに息づかい荒く、長い杖をつき、施副長は蒼い顔をしている。婦長、橋本、椿山みんな短い躯を血の染みたもんぺに包み、芦の葉で編んだ買物籠をさげている。それが往診鞄なのだ。施雇も頤を出している。長井が白鉢巻、腕まくりで稍元気だ。堤は眼鏡を失って、動作が覚束ない。皆思い思いの物を覆いている。蹠は釘の踏抜と肉刺とで小石をふみつける度に飛び上がる。哀れな一行、手拭もないので汗は乾くまで待つ。「おい爆撃だ、隠れろ」「頭上通過、前進」伏せたり、岩にくっついたり、駆けたり、なかなか道は予定の通りに捗らない。
 8月14日、谷の上の方、畦別当、川床、飛田を廻る。夕陽の中を帰る頃には、空腹と疲労と放射線障害とで2人宛肩組み合わねば歩けなくなった。山路は上り、又下り、なかなか苦しい。唯、訪問すると患者は云う迄もなく家族一同、ざわめいて喜び、治療を終わって辞する時、顔の憂色の失せているのを見るのが楽しみに、更に次の家へと山路を登るのである。
 それから10月8日まで58日間、かくの如くにして三山救護班は作業を続けた。診療地域は更に他の諸部落に拡張された。勿論最初が一番忙しかった。後には患者数が減り、経過も一定し、新患が少かったから手数が省けた。隊員はまた交代で大学本部へも出勤した。初の間殊にまだ浦上に本部のある頃には本部へ出勤する者は古屋野代理学長以下看護婦まで10指に満たぬ日もあった。吾隊員はかの焼け跡の調外科の1室に宿泊して雑務に服した、或時は雲仙に薬品取りに行き、或日は移転業務に携わった。本隊は依然三山にあった。

隊員相次いで倒る
 隊員は爆心地にあって受傷したものである。幸に、コンクリート壁の内に居たため障害の度は軽かったが、やはり放射線障害の症状を誰もが起した。口内炎、白血球減少、脱毛、高熱、下痢、そんなものが発生した。創傷の化膿のために動けぬ者もあった。隊員は相次いで床に倒れた。診療から帰った友が夜徹し看病して、夜が明ければまた巡回に出かけて行った。倒れた者は再び立ち上がる。その頃には看病した友の方が倒れた。いたわり、いたわられ、互いに注射をし合い、精神的に肉体的にお互い力をつけ合って働きに出た。隊長の如きは高熱と出血のため危篤に陥り一時は全く絶望にみえたが隊員不眠の看護により辛うじて恢復した。
 夜はほそいカンテラの灯をともして亡き友の冥福を祈った。遺骨はそれぞれ家族にお渡しした。死んだ友のことを思えば生きてこの位の苦労が何事であろう。小笹雇もついに死亡した。梅津雇は九死に一生を得て元気になった。
 法定救護期間ニカ月を経過しここに医療機関としての責任を果して、吾救護班は10月8日解散した。その間の成績を次章以下に述べよう。


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 第4章 今回患者の呈したる症状

第4章 今回患者の呈したる症状

第1項 症状の分類

症状の特徴
原子爆弾による人体損傷は爆圧によるものと放射線によるものと2種である。一般火薬爆弾に於けると、異る点は破片創の無き事及び放射線障害の有る事であり、更に火薬爆弾は爆裂時にのみ作用するに対し原子爆弾は爆裂時に、勿論最大作用を現わすが、後引続き長時間二次的放射線を発して持続、減衰的に作用する点が特異である。又症状の発現も即時に見られるものが多いけれども放射線障害は潜伏期を有するので後日に至って種々の症状を現わす点が特異であった。

直接障害と間接障害
症状は極めて多種多様であった。余等はこれを各角度から観察して次の如く分類して見た。作用源から見て直接的障害と間接的障害とに分つ。前者は原子爆弾による直接障害であるが、後者は稍趣を異にし、原子爆弾により変化した草を取扱った為に皮膚に湿疹を生じたもの、又変化した野菜類を食べた為に起った障害、被爆により身体の抵抗力が減退した為化膿し易く蚊蚤の刺痕等が膿疱疹となるものの如き皮膚障害をさすのである。

1次的障害と2次的障害
又1次的と2次的とにも分けられる。爆裂によって起された障害が1次的である。その後長時日爆心付近に残存放射線がありその作用により、障害されたものが2次的である。或人は1次的障害を受けた後引続き現場に壕生活をなして2次的障害をも併せ受けた。或人は爆撃後に現場に後片付等の為に来て2次的障害のみを受け発病した。2次的障害は勿論放射線障害のみである。

発症期による分類 即発性 早発性 遅発性 晩発性
症状の発現時期により、即発性、早発性、遅発性及び晩発性障害に分かつことが出来る。即ち爆裂瞬時に受けた損傷は即発性のもので即死、類火傷、外傷、精神異常、宿酔の如きが之である。早発性は概ね1週間以内早きは翌日頃より発症したもので口唇膿庖疹、口内炎、腸炎の如き消化器障害及び、衄血、血、吐血、下血、の如き出血性素因及び貧血等の血液障害であって、これは極めて重篤且つ奔馬性に経過し多くは1週間以内に死の転帰をとったものである。第3週以降皮下出血斑、歯齦出血性潰瘍、咽頭潰瘍、高熱、脱毛、を発現し一般症状重篤なるものが続出した。又前述の蚊蚤の刺痕の膿疱疹の如きものこの頃より続発した。萎縮腎様症状を呈する者も出始めている。これ等を遅発性と、称し度い。晩発性は1年以上、数10年後に発現を予想せられる皮膚潰瘍、皮膚癌の如きもの、或は生殖腺障害による畸型児誕生の如きものを言う。

第2項 各症状の詳細
今此等諸症状について観察した点を述べるが既知の如く余等は一切の器材を喪失し唯1個の小外科嚢と応急衛生材料を所持しているに過ぎなかったので、例えば血液検査の様な簡単な事項すら施行するを得なかったから、学問的に正確な記述とは称されない。

(イ)即死

即死 爆圧死
爆心より1粁以内において路上、田畑、庭園、屋上等に在って全身曝露していた者は即時或は短時間内に死亡した。その多くは爆圧による死亡と推定される。眼球脱出、腹壁破裂等も見られたが之は爆圧により圧し潰し出されたものであろうか。地面に強く叩き付けられたものか、或は吹き飛ばされて打ち付けられたものか、頭蓋骨折、内臓破裂、内出血等と推定される屍体が多かった。

熱死
熱線により所謂焼き殺されたものがあるか否かは爆心地点の屍体を見なかったから分らぬが、爆心地より7百米の距離で死んだ吾が科の山下看護婦の顔面は黒焦に稍近い色にまで変っていたが毛髪は頭巾を被っていなかったにも拘らず焦げたり縮れたりしていなかった。勿論身体全面の皮膚は剥離していた。全身皮膚の放射線による広範囲の損傷も死因の1つに数えられようが、爆圧の方が主力であろう。

圧死 焼死
それから倒壊家屋の下敷による圧死や、焼死等も、この中に入れて置こう。吾が久松看護婦長はかの瞬間濃厚に発生した瓦斯により呼吸が塞りかけ、慌てて水で合嗽したのであるから、或は瓦斯による窒息死もあったかも知れない。

(ロ)類火傷

火傷
3粁以内において爆弾に面し曝露してみた皮膚は1種特有の損傷を呈した。一般には之を火傷と称している。勿論強烈な熱線を受けたのであるから火傷を生じたのである。然し熱による火傷の他に作用が加わっているのではないかと余等は思うのである。と言うのは被爆直後多数救護した患者の皮膚の状態は火傷とは1種異なる印象を与えたからである。
爆圧による剥離
余等は之は爆裂時に発生した真空陰圧によって皮膚が剥離したのではないかと考えた。或いは強力な爆圧により衣類が千切れ飛ばされると同時に千切り離されたのではないかと疑った。之は然し誤りと気付いた。もしそれならば被射面だけ剥離されるわけがなく、全身皮膚に起った筈である。此の2つの事を組合わせて考えたら如何であろう。即ち熱線が先ず来りて皮膚に火傷を生じ、その為皮膚は脆弱となる。次に強力な爆圧が到来して皮膚に作用したが、健康部は其侭残り、火傷部のみが千切れ剥離したのである。即ちこの皮膚損傷は火傷と爆圧との共同作用の結果である。

黒色部強反応
さて此焼線は白色部により反射され、黒色部によく吸収された。例えば吾が井上看護婦の屍体を検査すると、両眼を見開いて死んでいたが、その白眼部即ち結膜部は異常なく黒眼部即ち虹彩のある角膜部は焼けて穿孔していたのである。彼女は肝が据っていたから不敵にも敵機を睨みつけていて熱線に射られたのであろう。余等はまた黒色模様の浴衣を着ていた人が模様通り火傷を受けているのを見た。

毛髪の態度
だが火傷と言うと余程の熱である。毛髪の焼け縮れたのを見ないのは如何なるわけであろうか。焼け縮れたは爆圧の為に吹き飛ばされてしまったのであろうか。それにしては皆長い髪を有っているのである。髪は黒色だから皮膚より以上に反応したに違いない。それなのに皮膚損傷は強く毛髪は健在している事実は如何説明するか。

皮膚損傷状態
今其の皮膚損傷状態を述べると、顔面は不規則に断裂し、四股は長軸方向に長く幾条にも裂け関節部等で僅かに付着し、或いは端が縮れてぶらぶらし、それは真皮下において其底から剥離し、料理のワニザメの湯引きと称する物に似て、べろべろに縮み上り、千切れぼろをぶらさげた様である。その剥離部からは出血しているのである。皮膚表面の色は他の体部と同様に一様に紫褐色に変化しているが格別充血を見なかった。水疱は最初は殆ど見なかった。患者に「熱い」又は「熱かった」と訴えた者はなかった。皆一様に「寒い寒い」と叫んだ。真夏の真昼に寒がったのである。この症状は火傷とは少し異なるではあるまいか。

2次的原子爆弾
今この症状の原因として次の如き事が考えられないであろうか。それは皮膚乃至皮下に於ける2次的原子爆発とでも言うべき現象である。爆弾から粒子団例えば中性子の大団隊が猛烈な勢で飛来し、人体皮膚に当り、更に組織内深く透入し、皮下付近において、其処の組織の原子に激突し、ここに2次的の爆発を起す。或はその勢力を他の勢力に変じて組織を破壊する。これが少し早く到達した熱線の作用により脆弱にされた皮膚を剥離断裂せしめたのである。この考え方は全く余等の想像であるが一般の批判を求めたい。とにかく余等はこの種の皮膚損傷は単なる熱による火傷以上に激甚な損傷であるを認め、単に火傷と称し良くないので、敢て類火傷と称するのである。
粒子団による火傷
更に1例特異なのがある。これは爆風と共に火の雨が降って来て、その中の二個の火滴が皮膚に当ったために火傷したと言うのである。この滴の大いさは指頭大に見えたそうである。その傷を見ると火滴の当った点を中心にかなり広く犯されていた。
治療を続けた処周囲の部分は速かに治癒したが、丁度火滴の当った点はなかなか治癒しなかった。この火滴は一体何であろう?灼熱した放射能物質破片であったろうか、それならば将来此処に放射線による潰瘍が生ずるかも知れない。単なる弾体破片であったろうか。或は同時に焼夷剤を撒布したのであったろうか。
火傷状損傷を受けた時の感じを吾が施雇員は棒で打たれた様であったと言う。それでもその損傷面の広さは左前膊において約4平方糎に過ぎないものである。その感じは熱線の如き電磁波によるものと考えるよりも、粒子団の如き固形物の衝突を考えたいと言っている。尚火災による普通の火傷もあった。

(ハ)外傷

外傷
倒壊家屋或は器具の下敷になった者、ガラス破片に切られた者が主であるが、救助者が殆どなかった為、自力で脱出し得た軽傷者が傷者として救護所に収容され、重傷者は殆どすべて次いで覆った焔に焼殺され尽した。従って今回は火薬爆撃と異り外傷の重傷者は少い。ガラス片は、火薬爆撃によるものよりは著しく少い。その刺透力は比較的強大であった。

(ニ)精神異常

精神異常
被爆直後、混乱最中に廊下の一隅をふらふら歩き回り、余がその肩を叩き名を呼んでも応答せず眼を虚に依然歩き回る看護婦があった。通路に裸体にて腰を下し「子供 子供」とだけ呟き、3日間其侭の姿勢でいた老婆がある。純心女学校の奉安殿の欄干に腰かけ、美声を張上げ、手振りをしつつ関の五本松を歌い続ける若い裸体の女があった。尚一般に活動は鈍化し戦闘意識は著しく低下し、茫然たる者も多数見受けられた。

(ホ)全身症状

全身症状
被爆後1時間には既に著明な全身脱力感、違和感、疲労感を覚えた。全身の植物性神経系統に変調を来たした為であろう。これは時間の経過するに伴い甚しく翌日の如きは一同生ける屍の如く唯ごろごろと寝転んで、起上り、働く気力を失っていた。不眠、食欲減退があった。レントゲン照射後に見られるレントゲン宿酔の軽度のものの症状に似ていた。なお変調を来たしたものには尿量の減少がある。これは著明であった。口渇が頻に訴えられた。唾腺に障害を受けたからであったろうか。汗は当日と翌日はその量が減退した。

(ヘ)早発性消化器障害

消化器障害 口唇膿癌 口内炎 高熱 下痢
これは倒壊家屋内に埋没され、数時間後救出され、無事でよかったと喜んでいた人に現われ、急速に病勢悪化して第2週に何も死の転帰をとったものである。即ち被爆後1両日に口唇部に数コ乃至10コ位の大豆大の膿疱疹を生じ、その翌日頃より口内炎を発生し、次第に体温上昇し、口痛の為飲食困難となるも未だ全身症状良で安心していると、やがて食思不振、腹痛等の胃腸障碍が現われて来、ついに下痢が起って来た。この下痢は水様便で、粘液を混ずることもあり稀に血液をも混じた。裏急後重があり、上厠頻回で、体温は40度乃至42度に達し、全身衰弱刻々増加して多くは発病以来1週間乃至10日後にあらゆる対症療法の効果空しく100%死亡したのである。これは口唇より始まり消化器粘膜の炎衝が下降的に直腸にまで至ったのが主症状であるが、或は全粘膜同時に変化を起したのがその症状発現に遅速があったのかも知れない。

致死量照射
最初之は被爆地の南瓜等を食べた為と考えられたが、余等は之は、全身に致死量の放射線を受けた為のものと解釈し、唯消化器粘膜の症状が外部に著明に現われたもの、(勿論そのための栄養障碍も死を早めてはいるが)と考えたい。即ち倒壊家屋内で長時間じっとしている間中、この家屋が発する既述の2次放射線を致死量以上に受けてしまい、その作用が短い潜伏期の後発現したものである。致死量と言っても電磁波によるものは必ず潜伏期があるのだから、即死はしない。又致死量以上であったから、如何なる療法も無効であったと解釈したい。無傷のものにも、有傷のものにも見られた。爆心地に近い倒壊家屋内の人々に起ったのである。

(ト)早発性血液障害

血液障害 早発性 遅発性
血液の変化による症状を早発性と遅発性とに分ける事については異論があるかも知れない。何れも同じく造血臓器を犯された結果であるからこの項を廃して遅発性の内へ入れる論者もあろう。だが臨床上の形が早発性のものは出血性素因の状を著明に呈し、それは未だ被爆後の混乱の静まらない時期に発現した。それから世間が漸く落着き、患者も一段落であろうと安心した頃突然今まで健康体と見えた人が続々「アグラヌロチトーゼ」様症状を呈し或者は死の転帰をとり、再び人心を不安ならしめたのであって、この2者の発現時期の間には著明な間隔があった。それ故余等は2者を別々に記載するのである。

出血性素因
第2週に入るや少数例ではあったが突然出血を来たし死の転帰をとるものが現われた。それは被爆後貧血の次第に強くなる人に見られた。衄血を出し如何にしても止らず死亡した者、かねて十二指腸潰瘍のありしものが下血した例を経験した。これは恐らく血小板の変化による出血性素因を招来したのであろう。吐血例も間接に聞いている。

(チ)遅発性血液障害

貧血 高熱 口内炎 歯齦出血 咽頭炎 皮下出血 斑点
第4週の初から第8週頃に至るまで皮下出血斑を特徴とする患者が続発した。それは爆心地から5百米乃至1粁位の範囲内に居て、閃光を全身に受けた者、或は倒壊家屋に埋没されて数時間その侭であった者、爆撃直後長い日数爆心地付近で壕内生活、仮小屋生活を続けた者に見られた。最初は元気で後片付けに働いていた者が多い。
顔色が貧血状となり、全身倦怠が次第に増して、突然体温上昇し、歯齦、口内粘膜に米粒大の有痛性の膿庖を数コ発生し、やがてひろく口内炎となり、歯齦より容易に出血し、此処に不潔な、黒紫色壊死を生じ、後化膿し、又咽頭炎を発し義膜を生じ、扁桃腺或は其付近に潰瘍を生じ、激痛の為飲食困難乃至不能となる。皮膚は一帯に帯緑の蒼白色を呈し、点々と小豆色の斑点を発現する。始め躯幹、上膊に生じ、次いで全身に現われるが大褪に多発する。大いさは止針頭大から米粒大、小豆大のもの最も多く、拡大して小指頭大に達するものもあり。又血泡となった例も少数みられた。互に融合する傾向は少い。治癒に当っては痕跡なく短時日間に消失した。
疼痛、瘙痛はない。これらの症状は「アグラヌロチトーゼ」を思わせた。白血球数は著しく減少しているであろう。小児は早期に発症し、老人は遅れて発病した。症状に軽重があったが、その差を生じた原因としては勿論放射線の照射量が第1であるが個人の体質、年齢、健康度も又関係した様である。死亡率は他の救護所の噂では高かった様であるが、余等の患者では約20%である。
合併症
合併症として肺炎が2例あったが、これは咽頭炎の為誤嚥をなし嚥下性肺炎を生じたものであった。消化器障害、頭髪の脱落もかなり多数みられた。本症が類火傷患者に見られなかったのは注目すべき現象であった。

(リ)間接的障害

皮膚炎
爆撃を受け植物も枯死した。翌日朝この枯れた草を刈り取った農夫が次の日より草に触れた部分即ち両手両足及び担った肩に有痒性紅色の丘疹を生じた。それは「かぶれ」に似ていた。余等は1例観察したが、他にも在ったと言う話である。

化膿
爆撃数週間後より蚤・蚊の刺痕が膿疱疹と化するものが続出した。又小創が化膿し易くなった。これ等は全身抵抗の低下に基くものと解釈される。

(ヌ)其 他
以上余等の観察例のみについて述べたのであるが、それは極めて少数例である。他の救護機関においてこれ以外の症状が観察せられたかも知れない。


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 第5章 今回患者の諸統計

第1項 全般に関する統計

(イ)患者数
余等が西浦上、木場郷、川平郷において爆撃後4日目から2カ月日迄に診察した患者。
 患者数 125名

(ロ)性別
男と女との数に差異はない。
 男 62名
 女 63名
 
(ハ)年齢
小児、老人は著しく少ない。これは疎開の関係もあるが小児の多くは3日目迄に死亡し、老人は放射線に対して鈍感であるからであろう。
 小 児(15歳以下) 26名
 成 人(16歳-60歳) 94名
 老 人(60歳以上) 5名
 
(二)爆心地からの距離
半粁以内の生残患者は少ない。半粁より1粁の間が最も多い。7粁の遠距離にも弱症状を呈する患者が発生した。5、6粁の地点は山で人が居ない。
 半粁以内 3
 1 粁 90
 2 粁 11
 3 粁 16
 4 粁 1
 5 粁 0
 6 粁 0
 7 粁 4

 (ホ)転 帰
社会的に恐怖を起したが、死亡率は約4分の1であった。2カ月の間には過半数は症状が治癒して再び就業している。重傷者で未だ全治に至らぬ者や最近発病したものは皆快方に向っている。一部は途中から他の救護機関に移った。
 全 治 79名
 軽 快 10名
 死 亡 29名
 転 出 7名
 
(へ)治療日数
▽作業期間
8月12日より10月8日まで巡回診療を行った。
 期 間 58日

▽治療総日数(延患者数)
余等が加療した日数を患者全体について総計した。
 治療総日数 2829日(人)

▽全治者の治療日数
発病より治癒までの日数の79名の平均は1カ月余りである。
 全治平均日数 34日

▽死亡者就床日数
受傷又は発病より死亡迄の就床期間の29名の平均は2週間である。
 死亡者就床平均日数 14日

 (ト)症 状
▽障害別
同一患者が最初の損傷の外に他の症状を併発することがあってこれは両方に計上されるから本義の総計は患者実数を超過する。

直接的
即発性  外 傷
 類火傷
 混合傷
47名
36名
9名
早発性  早発性血液障害
 早発性消火器障害
6名
15名
遅発性  遅発性血液障害 24名
間接的    間接的障害 2名

▽受傷の有無
爆撃時に無傷にして遅発性障害を起こした者が全体の4分の1ある。
有傷 外 傷
類火傷
混合傷
47
36
9
92
無傷 埋没無傷
無  傷
15
18
33


第2項 各傷害別に於ける統計

(チ)外 傷
▽患者数
前表混合傷中には外傷を有する者があるからこれを加える。
 外傷患者数 56名

▽性 別
 男 25名
 女 31名

▽年 齢
 小 児 7名
 成 人 47名
 老 人 2名

▽爆心地からの距離
倒壊家屋、破損機械、ガラス片による損傷であるから近距離が多い。
 半粁以内 3名(死3)
 1粁以内   51名(死2)
 2粁以内 2名(死0)

▽治療日数(死者転出者を除く)
 最 長 61
 最 短 14
 平 均 33

▽創傷別
 擦過傷 19
 打撲傷 14
 切 創 13
 雑 傷 6
 刺 傷 4

▽転帰
 全 治 34
 軽 快 4
 死 亡 15
 転 出 3

▽死亡者
 外傷者死亡数 15
 死亡率 27%

死亡率は梢高いが、之は後に放射線障害症状を表わした者が多く創傷自身の為死亡した者は少ない。

▽死因
 創 傷 3
 消化器障害 7
 血液障害 5

▽死亡者年齢
 小 児 2
 成 人 12
 老 人 1

(リ)類火傷

▽患者数
 類火傷患者数 45

▽性別
 男 27
 女 18

▽年齢
 小 児 8
 成 人 34
 老 人 3

▽爆心地からの距離
本傷は直射されて生ずるものであるから至近距離にあったものは早く死亡した。それで生存患者は外傷に比べて遠距離が多い。
 半粁以内 0
 1粁以内 20(死5)
 2粁以内 10(死1)
 3粁以内 15(死0)

▽治療日数(死者転出者を除く)
 最 長 61
 最 短 16
 平 均 31

▽転帰
 全 治 36
 軽 快 3
 死 亡 6
 転 出 0

▽損傷部位
露出部に多い。下半身は防空服装で固めていたから少ない。上半身は薄い開胸短袖の夏上衣の為損傷が多かった。有髪頭部は只男子の1例に見られた。
 頭 部 1
 顔 部 29
 頸 部 10
 胸 部 10
 腹 部 1
 脊 部 4
 上 肢 30
 下 肢 15

▽死亡者
 死亡数 6
 死亡率 13%

▽死因
類火傷の皮膚から出る分解物質による中毒死が多かった。本病は遅発性の疾患を生じないのが特長である。
 全身衰弱(中毒) 5
 消化器障害 1
 血液障害 0

▽死亡者年齢
 小 児 2
 成 人 4
 老 人 0

 (ヌ)早発性血液障害

▽患者数
 早発性血液障害患者数 6

▽性別
 男 5
 女 1

▽年齢
 小 児 0
 成 人 6
 老 人 0

▽爆心地からの距離
全身急性放射線障害であるから至近距離のものに多い。遠距離の1例は十二指腸潰瘍の既往症がある。軽度血液変化により出血したが間もなく止血して後転出した例である。
 半粁以内 2(死2)
 1粁以内 3(死3)
 2粁以内 0
 3粁以内 1(死0)

▽転帰
 全 治 0
 軽 快 0
 死 亡 5
 転 出 1

▽症状
 衄 血 4
 吐 血 1
 下 血 1
 創出血 1

▽受傷の有無
 外 傷 3
 類火傷 0
 埋没無傷 1
 無 傷 2

▽死亡者
 死亡者数 5
 死亡率 83%

▽生存日数
被爆より死亡に至る迄の日数
 最 長 18
 最 短 8
 平 均 14

 (ル)早発性消化器障害

▽患者数
 早発性消化器障害患者数 15

▽性別
 男 5
 女 10

▽年齢
 小 児 4
 成 人 11
 老 人 0

▽爆心地からの距離
近距離のものに見られたのは全身急性放射線障害であるからであろう。
 半粁以内 1
 1粁以内 14

▽転帰
全部死亡した。転出者も転出後間もなく死亡したと聞く。
 全 治 0
 軽 快 0
 死 亡 13
 転 出(後死亡) 2

▽症状
下痢高熱は必発症状であった。
 下 痢 15
 高 熱 15
 口唇膿疱疹 4
 口内炎 5

▽生存日数
被爆より死亡までの日数は10余日であった。
 最 長 21
 最 短 7
 平 均 12

▽受傷の有無
埋没者に多く見られた。又無傷にも多く見られた。
 外 傷 6
 混合傷 1
 埋没無傷 7
 無 傷 1

 (ヲ)遅発性血液障害

▽患者数
 遅発性血液障害患者数 24

▽性別
 男                 9
 女 15

▽年齢
 小 児 6
 成 人 18
 老 人 0

▽爆心地からの距離
 半粁以内 0
 1粁以内 20
 2粁以内 0
 3粁以内 1
 4粁以内 1
 5粁以内 0
 6粁以内 0
 7粁以内 2

▽転帰
 全 治 15
 軽 快 4
 死 亡 4
 転 出 1

▽症状
 高 熱 24
 貧 血 24
 皮下出血斑点 22
 歯齦出血 7
 口内炎咽頭炎 7
 脱 毛 9

▽発病時期
被爆から発病までの日数は平均満4週間後である。最早は幼児で特に早く発病した。この種の患者が突然続々発生し重篤な症状を呈し一般の注意を引いたのは第4週であった。
 最 早 13日目
 最 遅 54日目
 平 均 29日目

▽全治日数
全治者の治療日数は自家移血刺戟療法を施したものは著しく短かかった。然らざるものは月余に亘った。
 最 長 38日
 最 短 7日
 平 均 22日

▽死亡者就床日数
経過は奔馬性で発病当初より重篤で速やかに死の転帰を取った。
 最 長 14
 最 短 5
 平 均 9

▽死亡者生存日数
被爆から死亡迄の日数即ち放射線の致死量を受けてからの生存日数である。
 最 長 32
 最 短 17
 平 均 22

▽受傷の有無
無傷者に多い点に注目すべきである。殊に類火傷患者には見られなかった。これは類火傷患者の血液中には造血器官を刺戟してその機能退行を防止する或る物質が存在する為ではなかろうか。血液障害患者の治療に患者の血液を刺戟として用いる方法はこの本表の事実から着想された。
 外 傷 4
 類火傷 0
 埋没無傷 7
 無 傷 13

▽被爆後の生活
本症の原因としては1次放射線によるもののみならず、現地に長期間放射能を表わしていた彼の2次放射線が考慮されなければならない。
 1、2日中に他処へ避難したもの 14
 長期間現場仮住宅に残っていたもの 9
 当時現場に居なかったが後に居住したもの 1

(ワ)間接的障害

▽患者数
これは症状が軽微である。原子爆弾との関係は確認し難く、只、患者の訴えに基き且つ診断の結果を考慮して定めなければならない。或いはこの種の患者は無いのが正しいかも知れないし或いは外に多数あるかも知れない。
 間接的障害患者数 2

▽爆心地からの距離
 7粁 2

▽症状
 皮膚疾患 2

▽転帰
 全 治 2


第3項 死亡者に関する統計

(カ)死亡者総数
 死亡者総数 29
 死亡率 23.2%

(ヨ)死 因
 外傷 3
 類火傷 4
 混合傷 1
 消化器障害 12
 早発性血液障害 5
 遅発性血液障害 4

(タ)性別
 男         12
 女 17
 
(レ)年齢
 小 児 9
 成 人 19
 老 人 1

(ソ)年齢に対する死亡率
 小 児 34.6%
 成 人 20.2%
 老 人 20.0%

(ツ)死亡期日
 第1週 5
 第2週 14
 第3週 6
 第5週 3
 第8週 1

(ネ)生存期間
 最 長 57
 最 短 6
 平 均 15.2

(ナ)爆心地よりの距離
 半粁以内 3
 1粁以内 25
 2粁以内 1

(ラ)環境
 自宅静養 53名中   7名 13%
 仮小屋 10名中   5名 50%
 多家臨時避難 62名中   17名 27%

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 第6章 治療法

第1項 環境療法

環境と予后
 患者の環境が予後を左右するは既知の事実である。第5章第3項 (ラ)表に現れた如く、死亡者は現場仮小屋住居のものに著しく高率に見られ、自宅静養者では非常に低率であった。普通の家屋に住居しながら他家臨時避難者において自宅静養者の2倍の高率に現れたのも興味が深い。これは看護の為に必要な小さな色々の道具がなかったり、狭い室に多人数雑然と生活していて安静が保てなかったり、食料の入手が困難で栄養が充分でなかったりした為である。かの現場に壕生活や仮小屋生活を送った者は放射線の連続作用を受けたのみならず、雨漏り、風の吹通し等衛生上全く不適当な生活状態であったから、死亡率の高くなるのも当り前である。何と云っても住みなれた自宅で親しい家族から看護して貰うに勝った環境はない。
 平時にあっては設備の完全な病院は自宅以上の環境であろう。然し大爆撃後の如き場合に開設する救護所は病院でない処を臨時に使用するので設備も不完全であるし、患者が多いのに対し人手が不足なので多人数を1室に詰込むし、色々の外来訪問者が絶えず騒ぐし、患者の発生する臭気の為蝿は集るし、決して快適な静養所でない。患者と云うものは色々小さい我儘を通して貰わねば具合の悪いものである。それを人に気兼して我慢しているとやはり病気に障わる。早い話が放屁1発にしても自宅では平気だが、多人数の病室では之を殺すに人知れぬ苦難をせねばならぬ。
 余等はこの環境療法を重視して家庭静養法を採用したが、結果において著しく良好であったと信じている。唯1軒1軒巡回訪問して治療し指導するのは山地渓谷の関係上診療隊員にとっては甚だしい負担であった。然し成功したのだからその苦労も楽しかった。

実施
 患者には何よりも安静を守らせた。これは放射線障害の性質上将来如何なる重篤な症状がどの器管に起って来るのか不明であるから、兎に角要慎させたのである。病室は最も明るい室を選び、戸を解放し紫外線に富む戸外日光の散光が充分入る様にした。但し直射光はこれを避けた。蚊帳を夜は勿論昼も吊り通して、蚊、蝿を防いだ。その他着護学に示された点は総べてこれを家族に教育し、必ず実行する如くやかましく指導した。土地柄貧しい農家が多いから設備は充分とは云われないが皆色々に工夫して真剣に看護した。絶望と思われた患者が幾人も助かった。却って遠く救護所ヘリヤカー等で運ばれて行ったものは多くは骨となって帰って来た。
 土地は高燥である。朝々、谷から上る川霧は三山の頂を離れ白雲となって青空に浮ぶ。満目深緑の繁山である。荒涼たる爆撃の後浦上からやって来た人はこの風景を眺め、爽かな空気を吸っただけで蘇生した様だと云う。此処は全く静養に適した環境であった。


第2項 鉱泉療法

鉱泉の効果
 鉱泉が火傷、外傷の治療に卓効あることは古来周知の事実である。地底にある処女水は高圧高熱のためその含有物質の分子立体構造が歪をうけている。それが地面に湧出し、平圧、平温の状態に移り歪が直り、立体構造が変ってくる。このために剰余となったエルネギーが放射線として発散される。この一種の放射能が治療効果を有するではないかと云う考え方がある。今回の類火傷は放射線障害である。放射線障害の治療には他種の放射線の弱照射を以て刺戟するのがよい。余等は類火傷の治療に鉱泉療法を応用した、これは又患者は多いし治療材料は少ないと云う状況であったので材料節約に役立った。又土地の入に鉱泉療法についての認識を深めしむるに役立った。

六枚板鉱泉
 西浦上木場郷六枚板には古くから鉱泉(冷泉)が湧出し一時湯宿の設けられてあったこともある。ところが同地に金鉱が発見され坑道を掘ったところその湧出が止り湯宿は廃った。現在は旧湧出口より2百米西方の金山廃坑付近から湧出している。現湧出口は稲田の畦崖の下にあり、径30糎位、周囲には雑草が茂っている。湧出量は1秒5立、小さな流れとなって雑草の間を流れ傍の小川に注いでいる。泉水は無色透明、温度は10度位、口に含めば僅かに渋味があり、かすかな硫化水素様匂いをもっている。

効果
 この鉱泉を体温にあたため、温浴或は温罨法に用いた。1日3回、1回1時間宛行わしめた。浴後又は罨法後、オキシフルを以て創面を清拭し植物性油を塗布した。
 効果はすぐれていた。創面は清潔に保たれ化膿せず肉芽は正常で周囲からの皮膚の進入が違った。泉源から遠距離にあって毎日汲みに行かれぬ者や鉱泉療法の効果を疑ってこれを行わなかった者との治癒までの日数には著しい差がある。(死亡者を除く)
即ち平均2週間早く治癒したのである。
なお外傷に対しても有効であった。
類火傷治癒日数 鉱泉療法 20例平均 24日
対  照 19例平均 38日


第3項 自家移血刺戟療法

方法
 遅発性血液障害患者に対し、施医員が実施し著効を認めたのは自家移血刺戟療法である。方法は簡単である。
 枸櫞酸曹達0.2ccを2ccの注射器にとり、これを以て当該患者の静脈血2ccを採り、よく混和して凝固を防ぎ、これを直ちに同人の臀筋肉に注射し、後を温罨法しよくもんでおく。注射部に疼痛を訴えるのみで副作用はない。これを隔日1回行い、数回でクールを終った。

成績
 第1回注射後3日目に病勢の急激な頓坐が起った。そして諸症状は速かに治癒に向った。即ち咽頭潰瘍はその進行を停止し、次いで義膜剥離し、潰瘍面清潔となり疼痛消失し治癒に向った。皮下出血斑点は新発を見ず、既発のものも次第に消失して行った。体温は下降し、自覚的にも著しく元気づいて来た。症状が消失し就業し得るに至った日数も注射を行わない一般対症治療のみ施行した対照例に比較して甚しく短縮した。
血液障害患者治癒日数 自家移血刺戟
療法施行者
12例平均 17日
対  照 7例平均 31日

本療法を施行した例には死亡者を出さなかった。
血液障害患者死亡者数 自家移血刺戟療法施行者 0
対照例 3

 本療法は効果あること、方法簡単なること、本人の血液を利用するを以って別の給血者を要しないこと、副作用のないこと等の長所があるので一般に推薦したいと思う。
本療法の治癒機転については他の疾患の際に施行される自家移血刺戟療法に於けると同様であると思う。詳細は各種の実験を経なければ不明であり、現在の余等はその能力を有っていない。

 余等は類火傷患者の血液はかかる遅発性放射線障害を治癒する力を有っているではないかと思う。しかしまだ実験していない。一般の研究を希望する。


第4項 一般対症療法

(イ)火 傷
 外傷患者の大部分は埋没より救出されたものである。それで創傷付近には凝血、土砂の類が付着して不潔であった。まずクレゾール温液を以て徹底的に洗滌した。次に創内に刺入残留したガラス片、木片、竹片、金属片、土砂、コンクリート片、衣類端片を綿密に捜索摘出した。後はオキシフル、マキュロクローム、或は沃丁を用い普通の通り防腐処置を行なった。大創は縫合したが、これも一期癒合をよく完全にした。後期にはリマオン軟膏、肝油等を使用して有効であった。破傷風、ガス壊疽血清を用いなかったが幸に患者は発生しなかった。

(ロ)類火傷
 前述の通り鉱泉療法を行なったが対照例は塗油療法マキュロ塗布、を施した。民間療法として見られたものは柿渋、練米飯、馬鈴薯、生南瓜、泥土(鮮入)等であった。これらの効果は少なかった。

(ハ)早発性血液障害
 止血剤、ビタミンC剤、無効であった。その他対症療法一切無効であった。

(二)早発性消化器障害
 初め元気そうに見えて唯口唇に膿疱があり、大したことはないと油断しているうちに口内炎を起した。これは重曹水含嗽酸又硼酸水含嗽の何れにも抵抗した。硝酸銀、ルゴール、マキュロクローム、蜜等色々試みたが無効であった。下痢、裏急後重も亦吸着剤、収歛剤に反応せず、一切の治療無効のまま急激に鬼籍に入った。

(ホ)遅発性血液障害
 フォーレル水の少量を与えた。これは有効であった。かなり重篤な者が危篤状態を脱した。栄養は特に注意した。励行せしめたものに肝臓野菜食療法がある。物資の乏しい時であったが、牛、山羊、鶏、鰻などの肝臓が入手された。骨髄スープも賞用された。野菜は青い菜類の乏しい時であったが胡瓜が多く用いられた。果実としては、梨、柿が手に入った。これらはビタミン源として充分に与えられた。馬鈴薯、南瓜、冬瓜が主な副食物であった。家庭静養法によった為栄養は充分であった。これも亦本病治癒に大きな役目を演じたに違いない。別にビタミンC、及びBの注射を大いに行なった。高熱に対しては、フェナセチンを投与し、又頭部を水で冷やした。ズルファミンは無効であった。口内炎に対しては硼酸水含喇を励行した。
 民間療法として、柿の葉、ドクダミ草、数珠玉、白南天、蘆薈、青紫蘇、ゲンノショウコ等の煎汁が多く用いられた。酢を飲ませて有効だったという者がある。体液の水素イオン濃度と関係があるであろうか。又重篤な患者が最後だからと日本酒を大量飲んで軽快したのもある。

○衛生材料
 衛生材料は市庁から交付を受けた。
 繃帯、綿紗、脱脂綿、縫合糸、絆創膏、マーキュロクローム、リマオン、クレゾール石鹸液、リゾール、過酸化水素水、酒精、胡麻油、健胃剤、フェナセチン、重曹、硼酸、ビタミンC、B、ビタカンフル、ジギタミン、ナルコポン、クエン酸ソーダ、アクチゾール、トロンボゲン、エフェドリン、豚脂、などである。


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 第7章 将来の予想と対策

第1項 爆心地居住の問題

原因の究明
 爆心地一帯は将来居住に適するか否かは詳細な研究の結果に侯たねば決定されない。これが材料は第1に原子爆弾製作者の発表である。即ち原料は何を用いたか、如何なる方法で爆発せしめたか、予備実験では如何なる結果であったかを明らかにしてもらいたい。問題となるのは爆心地に放射能が残存しているか否か、残存しておればそれは取除可能であるか否か、取除不可能ならばその放射能終熄時期の予想は幾何であるか。又放射能の種類は何か、その透過力はどの位であるか。これを防御するにはいくらの厚さの何を用いればよいか、という如き諸点である。
 余等の推測する処によれば原子爆弾の全原子が完全に爆発しておれば問題でないが、技術上その内の一部は原子が破壊しないか、或いは不完全変壊をなし放射能を有する塊として地上に散布せられているではないかと思うのである。もとの原子が軽元素であれば、その放射能を出す期間も短いがウラニウム、トリウムの如き重元素であれば自然崩壊により放射線を長期間出し続ける。たとえば、その系統のラジウムなどは放射能が半分になるまで2千年近くかかると云うのだから、そのままにして何時までも待っているわけにはゆかない。75年どころではないわけである。それで使用された元素名を正直に知らせて欲しいのである。

対策
 次に爆心地に於いて鋭敏な検出器械を用いて、虱潰しで放射能の測定を致さねばならない。放射線の強さは原子からの距離の自乗に逆比例するから少し離れると非常に弱くなり、その為ひろい地域で処々測定したのでは見逃すかも知れない。そうして1個1個の放射源を探り出す。恐らくそれは肉眼では見えぬ程小さいものに違いない。けれども円匙で取除けばよい。これを捨てないで集めて精選してゆけばラジウム等の放射能物質を相当多量回収できるかも知れない。
 爆心地の物質全体が原子爆弾爆発の時強力な1次線を受け人工的に放射能を拡得して一帯に放射線を出していると云うのであれば果たして幾糎の深さまでが放射能を有しているかを測定し、その厚さだけの上層部を大々的に取除かねばならない。こういう事はしかし短期間続くのみで暫く待てば放射能を失う筈である。
 実験をしていないから責任をもてないが、たとえば蟻の様な地表生活を営む小動物が死滅しないならば放射線量は衛生上顧慮する必要はないのでないかと思われる。原子野の蟻なども注目すべきものの1つである。
 写真のフィルムを黒紙に包み此れを1週間位地面又は地面下に於いて後現像してみて感光しておれば放射線であるわけである。これも手軽に出来る検査法である。
 かくてとにかく住めると云うことになれば床を厚くしたがよいと思う。鉛板を床下に張れば安全である。又バリウムを壁土の如く床の上に塗りその上に畳を敷けばよいと思う。30糎以上厚さのコンクリートもよいと思う。又床をなるべく高くして地面からの距離を大にするのも一方法である。
 放射線を受けるとガラスは紫色又は褐色に変色する。将来家のガラス戸が変色したならば放射線のあることがわかる。
 弱い放射能を絶えず受けて生活したならばどんな障害が起こるかと言うに、予想されるのは白血病、不妊、皮膚乾燥などである。白血球は初めは減少するが、後次第に増加する。これは放射線慢性骨殖性白血病である。其予後は不良である。不妊は男女共に生殖細胞を死滅せしめられるために多い。一般分泌腺が犯されて皮膚の乾燥することもある。


第2項 人体に起る障害

遅発性障害
 近い将来に起こるのは白血球減少に基く化膿菌其他の黴菌に対する抵抗力の低下である。従って蚊蚤の刺痕や小創がすぐに化膿して容易に癒らず、その他一般の細菌性疾患に罹り易い爆心地附近の衛生事態の不良と相俟って各種伝染病の蔓延が予想される。勿論白血球を増加せしめ体の抵抗力を増すのが第1であるが、共同便所の建設、塵埃糞尿整理、住宅の建設を当局の努力により至急実現して頂かねば悲惨なる状態となる虞がある。戦役後に疾病流行は付物であるが、今回は白血球減少という一項が新に加わっているから特に注意を要する。
 又腎臓障害が起こりはせぬかと思う。夜間頻に排尿する傾向即ち萎縮腎水腫を来す、腎臓炎が予想される。
 副腎に強照射を受けたものは異常な色素沈着を皮膚に起すかも知れない。
 脱毛の再生は起る。しかし、おそらく長年月を要するであろう。又不完全かも知れない。
小児の成長は影響を受けるか如何か。大量照射をすると骨の発育は悪くなる。うけた放射線量によるのであるが少しは成長が悪くなるであろう。
 月経不順、インポテンツが訴えられたが、これは次第に回復するものと思われる。不妊も従て永久的のものではない。

晩発性障害
 遠い将来に考えられるものは晩発性諸障害である。第1は類火傷の瘢痕の問題である。これは抵抗の弱い部分である。これを摩擦したり、屢々同じ刺激を与えたり、薬品を塗布したり、又創をつけたりすると容易に癒らず、ついに潰瘍となりはしないかと心配される。従って瘢痕は常に注意深く保護されねばならぬ。これは特別に患者に強調しておかなければならぬ。潰瘍が長年月の後に癌に悪性変化する可能性がある様である。これは今から予想して居るべきであろう。
 第2は造血器官機能回復の問題である。10月始即ち2ヵ月の現在では血液障害患者の新発生も稀となり、患者の症状も治癒又は軽快しているが、これで終わるものであろうか。一般に放射障害は波状に1次、2次、3次と現れる。皮下出血斑点が2週間の間隔をおいて2回現れた例があった。それで一時軽快して後にまた悪化することがありはしないかと心配される。又慢性の血液疾患に移行する虞はありはしないかと心配される。これらの問題は住民の血液像検査を定期的に施行してゆかなければ見当がつかない。


第3項 農作物

 実験では植物は極少量の放射線を受けるとその発育が促進される。大量では阻害される。極大量では枯死する。放射線が爆心地に残存しておれば、農作物の成育は不良であろう。
 爆心地に生じた農作物は飲食しても無害であると思う。一時浦上の南瓜には毒があると云われたが、これは爆圧で吹きちぎられ、暑い陽に照らされたまま土の上に転がっていたため、腐敗分解を起こしていたものを食ったからであると思う。


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 第8章 考 察

第1項 爆弾

原料
○使用された元素はウラニウム、プルトニウムの如き重元素である由であるが、此等はなかなか原料として入手し難いものである。爆発方法を変えればアルミニウムなどの軽元素で出来そうに思われる。
○爆弾から出て来たものは、原子エネルギー・電磁波及び粒子群であったと思う。

放射線
○戦術的には破壊を目的とする原子エネルギーと火災を起さすべき熱線とが要求されたであろう。それは確かに科学者が頭脳の中に計画し予想した通りの結果を顕わした。それは人道上の問題とはなるまい。被害者の余等自ら、此れは戦争の常だから仕方ないと思い、別に恨みはしなかった。しかしながら後日、戦争が終了してから、続々と潜伏期を過ぎた患者が発生する様になり、殊に残留放射能のため生活不能の問題が論ぜられる様になって、人道上何物かを考えさせるに至った。即ち、電磁波、粒子群という副産物による身体障害が此処に注目をひくに至ったのである。
○最初から粒子群の1なる中性子が重視され喧伝された。しかし余等はガンマ線も重大な役を演じたと思う。

沈降残留放射能物質
○粒子群の一部は爆発直後直線的に飛び地上に達し、人体その他に作用を及ぼしたが、他の部は途中で運動エネルギーを失い、空中に浮遊し、風のままに移動し、次第に沈降したであろう。これらの粒子、特に後者が残留放射能原となったではあるまいかと思う。かの爆裂直後空中に出来た白い雲はこれらの粒子が主ではあるまいか。
閃光
○閃光の光度はいくらであったろう。夏の白昼にマグネシウム点火以上に感じたのだから随分のものに違いない。その色調は人々によって色々に云う。大体白色に近かったと言う者が多い。しかしその帯色は赤から紫まで色々に言う。又虹の如き七色をみたと云うのもある。地上の地物が美しい夕焼色に輝いたのを見た人もある。これは各人の視神経の差であろうか。突嗟の印象で不正確なのであろうか。方向によって出て来た電磁波の波長が異なるからであろうか。直接光でなく、散光を見た者の目はくらまなかった。

爆音
〇1粁以内にあった余等は爆裂音をきかなかった。遠くの人は、普通の爆撃の何倍か何10倍かの轟音をきいた。もっとも余等の内幾人かは鼓膜を破られた。
爆圧
○爆圧の襲来は瞬間的ではなかった。数秒間、突風の中に居る様な感じであった。最初は稍弱く、暴風の程度で約1秒、それから最大の爆圧が来て、それが2秒位、後はまた弱まった様に思う。山腹からの反射圧の来た所では間隔をおいて2回襲来した。これは原子爆裂の進行過程に関係するであろう。
○爆圧のした仕事のあとを見ると、上から押しつぶし、地面に反射したのが、それを上から吹き払った様にみえる。脳天を喰わし、足払いをかけた様な格好だ。地面にすれすれに横に働いた形跡も多く見受けられた。巨石が地上を横に移動している。これらの力はどの位だろう。
○屋外、廊下などにいた人が瞬間にして着物を失っていたのも爆圧によるのだろう。帯や紐で締めていた部分とか、厚地の袴は残ったが、薄手の衣はなくなっていた。遠くに飛んでいるのを見つけた者もある。また、ぼろぼろに裂けてしまったのもある。とにかくあの瞬間、色々な服装をして目の前を歩いていた老幼男女が真裸になったのだから、全く度肝をぬかれ、また少々滑稽を感じた。

火災の原因
○火災の原因については色々考えられる。原子爆弾爆裂時の温度は太陽よりも高いそうだから、それが5百米の近距離にあれば、一瞬間とは言っても、地上の物を焼く力が有ろう。疎開跡の木材置場の様な火気の無い所から逸早く火の手が上がった等の例を見ても、爆弾から出た熱線で燃えだしたと見るべきである。勿論倒壊家屋の中の火気から出火したものもある。だが、あの時ひろい爆心地を見渡すと、全面が一時に発火しないで、発火点が散在していた。これは何故であろう。まず考えられるのは熱線はおしなべて一様に到来したが、其の作用時間が瞬間的で短いため、全部の事物を発火せしめ得なかった。黒色の如く熱を吸収しやすい色の物だとか、発火点のひくい発火し易いものが、引火性の物と隣接していた所だとかが発火したのであろう。次の考え方は、熱線の分布が不均等で、或所には熱線量が多量に集中する如く照射され、其処が発火したと見るのである。これらは熱線という長波長の電磁波によるものであるが、別に火の玉という物体が降って来て点火したのを見たものが多い。そしてこれは爆心より離れた地点で観察されている。火の玉の大きさはあまり大きくない。指頭大のものが多い。爆圧と同時にばらばらと飛んで来た。これは灼熱した爆弾の破片(原子塊)であろうか。それとも別の焼夷剤を同時に散布したであろうか。

暗黒
○爆撃直後視力を失ったのは何故であろうか。閃光の為に一時的に視神経が機能を失ったのであろうか。印象はそれと異なっている。地上の物が瞬間に粉砕倒壊した為に塵埃が極めて濃厚な密度に立ちこめたであろうか。そんな気もするが、随分まっ暗であった。1次放射線及び地面に生じた2次散乱線により、空気中に特別の瓦斯が生じたのであろうか。又は空中に生じたかの濃厚な瓦斯雲により、太陽光線が完全に遮られたのであろうか。この最後の考え方が一番妥当の様だ。と云うのは1乃至2分後、何か雲が霽れて陽がさし始めた様な風に明るくなったからである。あの時は盲目になったと思った者が多かった。

火薬爆弾との差
○原子爆弾と火薬爆弾との差異を考えてみる。
爆  弾  の  差  異
  原 子 爆 弾 火 薬 爆 弾
爆発機転 物理的 科学的
主動部分 原子核 原子核外電子
発生物 粒子、電磁波、原子エネルギー 気体、熱、弾片
威力 絶大
原料量
作用 機械的(破壊)、物理的(放射線) 機械的(破壊)
作用時間 連続、減衰的 瞬間的
人体損傷 爆圧傷、外傷、放射線障害、火傷 爆圧傷、外傷(弾片創)
障害発現期 即発性、後発性 即発性
予後判定 困難 容易
後発症状
宿酔

 将来、小型の原子爆弾が用いられた時、衛生部員として即座に之を鑑別することは容易である。即ち火傷が多ければ原子爆弾であり、弾片創があれば火薬爆弾である。この鑑別は重要である。何となれば、原子爆弾であれば、現場に居合わせた者は後発障害を顧慮して速やかに休養加療せねばならないからである。


第2項 人体損傷

症状の分類
○本損傷にみられる放射線障害は全身照射に基づくもので、1次的に大量瞬間照射のものもあれば、2次的の小量連続照射によるものもあるが、全身諸器官は皆程度の差はあれ、障害を受けた。消化器系、造血器系の症状が著明に表れたけれども、それらが特に大量受けたわけではなく、それらの組織が早期に重篤なる変化を起こす性質があるからである。潜伏期が夫々異なり、反応も異なり、又臓器の生命に対する重要度も異なるので、まだ今の処他の器官が問題とされないだけの事である。だから症状によって分類し、たとえば消化器とか、血液型とか、云うのは誤りである。たとえば消化器障害で早期に死亡した者がもし生残ったならば、後に血液障害を発したであろう。また現にこの2症状を兼発した者もある。また遅発性血液障害患者をよく調べてみると前に軽度の消化器障害を経過している。症状が軽かったから注意を引かなかったまでの事である。どの人も全身症状、消化器障害、血液障害という風に次々に症状を発するのである。
Oそれならば、消化器障害は軽微に経過したのに、後の血液障害が重篤であったのは何故かと云う問題も起ころう。これは組織によって変化の起り方が異なるためで、消化器には軽微な障害を与えた少量でも造血器には致命的な変化を起こさせたのである。
○大量受けた者が重篤症状を呈し、早期に発病し、少量受けた者が軽快な症状を呈したのである。むしろ、大量被射、中量被射、小量被射と分類するのがよいだろう。
症状の決定 線量
○症状の軽重は、放射線量、体質、年齢、健康度などによって決定される。放射線量が此中で最も重大な因子である。殆どはこれによって決まる。他のものは少々影響する程度である。たとえば、一家6名同日に次々早発性消化器障害で死亡した例をきいた。健康、年齢、体質、静養状態などに差があっても、一定の大量を受ければ変化の起こる速度は略一定するのである。同一家族が同一箇所で同量の照射を受けたから死期も同じかったのであろう。致死量以外の照射を受けた者は如何なる治療も既に無効であったのである。

距離
O放射線量は爆弾からの距離、曝露体面積、濾過によって決定され、更に残存放射能によるものを考慮すると爆撃後、爆心地滞在時間も大いに関係する。爆弾は上空で爆裂したのであるから、爆心地点からの水平距離を以て直接には示されない。三角法で計算すべきであるが、肝心の爆心地点と高さとが推測決定したものだから、この計算は無意味である。

濾過
○濾過体の問題は重大である。放射線が物体によって吸収されるのには物質、種類即ち元素、厚さ、密度が関係する。一方放射線の透過力が関係する。今度はコンクリート壁の陰にいた者は障害が少なかった様に思う。吾隊員が爆心地にありながら、しかも近い所にいた大学の他の職員に比して放射線障害の程度が軽微であったのは厚いコンクリート壁幾枚かを以て遮蔽されていたのが一因であろうと思う。なおかねて放射線室に勤務していたために「慣れ」ていたことも一因かも知れない。防空壕の掩蓋の厚さ、土質、水分含有度なども随分影響したように思う。
○年齢による症状の軽重は明らかに見られ幼少なる者に於いて激しい反応が起った。同一家庭で若い者が死んで老人ばかり残ったところは多い。
○医療に用いるレントゲン照射と原子爆弾の第1次放射線とを比較してみよう。

照 射 法 の 差 異
  原 子 爆 弾 レントゲン
回 数 1回 1回又は分割
時 間 瞬間 数分乃至数10分
線 量 極大量 危険量以下
線 質 各波長混合 一定範囲波長
距 離 遠(数百米) 近(2、30糎)
濾 過 不定 一定
照射野 全身 病竈
目 的 殺人 救命

○第2次的な残存放射能による照射は少量連続全身照射であって、ラジウム照射に似ている。もっと詳しく云えば、ラジウムエマナチオン浴、即ち、ラジウム温泉に連続入浴している様なものである。
〇一般人が放射線障害を、「爆風を飲んだ」とか「瓦斯を吸った」とか言っている。これはすべて「病は口より入る」ものとしているからであろう。皮膚を透して身体内部に感覚を刺戟することなく障害を与える放射線の認識がないからである。又「毒」なるものを化学的なものときめ易くて、この度の物理的原因による障害に対して、昔からの所謂「毒下し」療法が色々試みられた。


第3項 治療

○自家血液移血による刺戟療法の効果に就いては他の医療機関の追試を乞い、やはり卓効を認められた。その治癒機転に就いては将来研究すべきであろう。余等は更に一般のレントゲン、或いはラジウムの慢性障害、たとえば白血病の如きに試みようと思う。
 迷信的療法は行われなかった。原子爆弾という科学の粋に対しては、まじない師も手が出せなかったのか、一般民衆が戦争の間に科学水準を高めたからであろうか。


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 第9章 反省

第1項 事前準備

指導者の誤導
 永井は昭和15年以来長崎県警防課の依嘱により民防空の救護法を県下各界に指導したのであるが終戦と共に顧みて全く失敗であったと自認し、申訳なく思い、指導者の責任を痛感している。即ち永井は重点を第1外傷、第2毒ガス、第3細菌に置いて、大体この範囲で指導し、原子爆弾については全然考慮していなかったのである。一般の救護指導者は、内務省の指示に基いてそれだけ指導していたのだから責任も内務省へ転嫁すればよいが、永井は原子爆弾に関係ある放射線を専攻しておりながら、原子爆弾攻撃に対する対応策を研究しておらず、従って全然これが救護については指導もしなかったのである。これ実に指導者の頭脳の貧困、見透しの不明、敵情研究の不足、自己満足を白日下に曝露したもので敗戦の責任者と言わなければならない。今更過去戦争間を顧みて、よくもまあ敵を知らぬ者が指導者となって得意相に無益な長広舌を振っていたものだと我ながらあきれ、且つ恥ずかしい。しかも事態は単に自己一身の懺悔に止らず、数万の人命を失い、傷つけたのである。この責任この賠償を如何にして果し得るであろうか。
 古来戦に勝つ途は敵の知らざる兵器を有効に使用するにある。今回全く日本の虚を衝いて原子爆弾が用いられた。吾が情報部が果してかかる情報を完全に得なかったであろうか。それから又広島を攻撃されてから、その真相をまだ捕捉出来なかったであろうか。又その威力に終戦の決意を定める程驚愕しながら真相を発表して以て国民の警戒を更に適切に指導することをせず、単に新型爆弾攻撃を受け相当の被害ありと他国の噂話の如き呑気な報道をしたのは何故であろう。こう云う事を並べるも徒に敗軍の兵、将を論ずと云うべきであろうか。

大学
 大学の人員、資材を疎散すべきであったと云う論者もあろう。然し此も結果論である。原子爆弾の予想がなかったから、且つ学び且つ守れというので警戒を厳にしながら授業を急いだのであった。
 大学の警戒は如何であったか。当時警報が解除されたから授業は始っていた。病院の防空当番は第6(調外科)、第10(精神科)、第11(物療科)医療隊であった。高瀬精神科教授が病気欠席であったので、調教授が指揮をとられ、なお永井助教授、木戸助教授がその下にあった。普通の爆撃に対する準備は完成していた。警戒監視として学部4年生2名が裏山に鐘を持って立っていた。この2名が大声で「おかしい飛行機が進入しています」と繰返し叫ぶのを皆はきいた。だが、その次の瞬間急上昇の異常爆音、ピカリ、と来ておしまいであったのである。


第2項 爆撃以後

油断
 真夏の真昼である。暑い。警報が解除になったので、やれやれ風を入れよとあの厚い防空服をぬぎ鉄兜をはずした。そこを不意に襲われたのだからたまらない。傷はひどい。急いで服装をととのえようと室中をさがすけれども器材に埋まり、或は吹き飛ばされて見つからない。靴なしに飛び出して釘を踏みぬいた者は無数である。何のために長い間防空服装をととのえるに苦心をしたのか、油断大敵、大事な瞬間にだめであった。

状況判断
 被爆瞬間、余等は決して我を失ってはいなかった。落着いて考えていた。誰もが自分の至近距離に爆弾が落ちたのだと思った。それでそれに対する策を生埋めになっていながら考えていた。抜け出して外を見てもどうしても考え方の規模を大きくすることが出来なかった。つまり落着いてはいたが実相を掴んでいなかったのである。従って爾後の行動が不適切であった。

機械搬出せず
 「原子爆弾」と言う観念があの時ちっとでも頭に浮かんでいたらとこの頃思い出す度に残念でならない。そんな気が少しでもあったら、万難を排して、放射線測定器を取出すべきであった。それさえもっていたら、直後から時間を追って放射線量を測定し、色々な貴重な成績をあげていたであろう。写真器や現像材料やフィルムも取り出して感光度を測定したり患者を撮影するのであった。実に千載一遇の機会を逸し学界に対して申し訳がない。
 人間を助けるか、機械を取出すか、余等は暫く考えた。考えている間にも足許に幾人かの負傷者が這い寄って来た。それの止血をしながらまた考えた。そうしてもう一度室の中へ入って見た。室内は目茶目茶に壊されかき回されている。手のつけようもない。大きな機械は通路が塞がれて動かせぬし、小さい物は吹き飛ばされて破壊されている。また火の手は迫っていないから、まず人間を救おうと決心した。それから一同傷者の応急手当を始めた。暫くやっていると火の手が四方に上った。それが迫って来た。危険だ、それからは裏山へ負傷者を運び上げるのに時のたつのも忘れて働いた。するとレントゲン室が火を吹いたと叫ぶ者がある。見るとレントゲンのポリクリ室から焔を吹いている。フィルムが燃え出したのだ。そのうちにどの窓も火を吹き出した。まだ負傷者はその地下室にいるのだ。私達は燃える機械を惜しみながらも傷つける同胞の命を尊み1人1人火の地下室からそれを救出したものであった。
 だがその結果は如何、切角救出した患者は殆ど全部死亡してしまったではないか。幾人生き残っているであろう。あの決死の救出作業も無意味に終ったと言うべきか、どうせ死ぬ者なら放置して大切な測定器械でも出していたら幾万人の人の為になったのに、しかし無駄であったにせよ、人を見殺しには出来なかった。

救助状況
 さて筆に書けば救出作業は勇ましく且つ敏速に行われた様に想像されようが事実の光景は左程ではなかった。余等の動作は鈍重であった。それと言うのも埋没箇所から這い出した直後ではあり、それぞれ重軽の差はあれ負傷していたので力が出なかった。おまけに患者を安全地帯へ移しても移しても、あとからあとからと下の町から負傷者が病院を頼りに這い上って来ては玄関で倒れるのである。それを移した安全地帯へまた火が迫り、またも他の安全地帯を求めて移し直さねばならず、疲労は加わるし、患者は口々に色々の要求をするし、その要求を一一聞いて、それを取りに彼方此方探し回らねばならないし、2時間後位からはフラフラと動いていた。そして患者の世話も後から後から一一考えると冷汗が出る、全く不完全であった。死期の迫った患者に飲ませた不潔な貯水槽の水であった事も申訳ない。安全地帯と言っても火の来ない畑の上に野晒しに患者を寝させた侭放置した事も申訳ない。しかも余等はやはり生物の本能に従って自己生命の安全を図り、その夜は救護に当たらず南瓜を炊いて腹を作ると眠ってしまったのであった。
 第2日はなお悪かった。放射線宿酔の為全身脱力著しく殆ど終日ゴロゴロと寝転んでいた。しかも瀕死の患者は目前の地上に呻吟しているのにそれに手を出す気が起こらないのである。勿論衛生材料は何1つ残ってはいなかったが、手当する気力がなかった。唯「どうだ」ときいたり、水をのませたり、南瓜を食わせたのみであった。相済まぬ。
 永井は幾度か実戦において乱戦の中にまきこまれた経験があったので、かねがね部下の掌握に就いて訓練を重ねていた。それであの直後玄関前に突立っていると部下は次々に集結し、即死5名を除いて生残者は負傷者を背負って全員5分以内に団結した。そしてそれからずーと2カ月間一団となって作業をしたのである。ところが他の各団隊の状態は如何であったか。余は敗残の姿を此処にも見たのであった。

自己批判
 余等は此処に職務上、重大な責任を問われる失敗をなした事を自ら認めなければならない。夫れは爆心地に残存放射能があるから測定の結果安全と認められる迄立退く様住民に注意することを怠った点である。原子破壊であるからその位の事は気付くべきであったし、そしてまた速かに九大理学部などに連絡し確めて貰い、時機を失せず住民を立退かせなければならなかった。そうすれば後日あれ程迄多数の犠牲者を爆心地壕舎から出さなくて済んだのである。これ実に学者の非社会性の欠陥を如実に示したものである。

恐怖
 一度負傷すると勇者も臆病者になるとは云われた処であるが、かねて勇者でなかった者は殊更であった。殊に少数機で高々度でピカリとやられたらおしまいだったので1機の来襲にも過敏となり、すぐに待避するので行動作業の中止妨碍される事誠に甚しかった。指揮官がこういう風であったから、ビクビクもので救護したと批評されても仕方がない。終戦になって空襲がなくなったからよかったが、あの侭戦争が続いていたら一体どんな状態となったであろう。想像するだに情ない救護班となり終っていたのではあるまいか。
 原子爆弾患者と云う未曾有の新疾患である。地元大学の研究室は潰滅している。戦争は終っている。爆撃機は暇になった。連合軍側の許可を得てこの多数患者を大村から全国各大学へ空輸することは出来なかったろうか。もしそれが出来ていたらどれだけ多数の患者が救われたであろう。どれだけ多くの研究がなされたであろうか。あたら研究資料が貴重な生命と共に失われたのを嘆く。輸血と云う問題1つにした所で長崎市内には当時放射線障害を受けない給血者はいなかったのである。戦時衛生行政機関の国家としての動きも斯く不活発であった。
 かかる一大事に際し各級幹部が相会するや雑談即ち爆撃のこと自体についての思出話と身近知人の安否などの噂話に大切な時間をとられ、肝心のこれから如何するかと云う問題の研究決定がなされなかった。このためどれだけ部下が去就に迷ったか知れない。多くの者はどうなるのか誰に聞いても不明確だし、衣食住は無し勝手に離散してしまった。一旦手離したらなかなか掌握できるものじゃない。これ皆幹部が過去において部下の生死を握って共に働く場面を経験していなかったからである。
乱戦の中にあってよく団結を保ち行動するには次の諸点が考慮される。第1に隊の方針目的が明示され隊員がそれに感激するだけの意義がなければならぬ。第2に各隊員の責務が明らかに指示されねばならぬ。第3に隊員の衣食住が満足されなければならぬ。第4に賞罰が明らかにされねばならぬのである。余等はこの条件に合うものとして西浦上三山を選定した。結果は概ね所期の目的を達するものであった。唯隊員の負傷及放射線障害が甚しく交る交る就床したため充分に診療巡回を果さなかった事が不可抗力によるものながら遺憾であった。


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 第10章 結辞

 1895年レントゲン博士がレントゲン線を発見し、次でベクレルがウラン鉱の自然放射線を見出し、キュリーがラジウムを発見して此処に放射線及原子物理学の基礎が築かれた。それより今に50年、少数なりと云えども優れた学者が多方面の開拓発展に幾多の貢献をなし、人類福祉に資する処誠に大であった。原子核物理学は純粋科学の精華として一般社会とは一見関係薄きものの如く見え、或者は単なる学者の興味本位の仕事となして尊敬しながら一方軽視していたのである。今突如原子爆弾なるものが爆裂した。これは広島、長崎の上空において青天の霹靂として天地を震駭せしめたが、又同時に科学的に眠れる日本人の頭の中にも青天の霹靂として一大震駭を起したのである。
 自然科学特に純粋な理論科学の重要性を今こそ日本人は覚ったであろう。一見社会とは無関係にみえる学者の研究室の仕事が如何に重大な結果を生むかを今こそ知ったであろう。学者を忽にし冷遇し軽蔑した罪の報を今こそ身にしみて味わったろう。これでもまだ日本人の科学及科学者に対する考え方が改良されないならば日本人は永遠に救われないのだ。
 爆撃以来多くの人々が余等に原子爆弾について質問した。これに説明をしてみて驚いたのだが、てんで話の内容に見当がつかないのである。いかに日本人の科学水準が低いかを知り驚き且つ淋しかった。
 原子エネルギーの解放利用と言う課題は、既に多年、学者の解決せんと努力を続けて来たところであった。時たまたま戦乱となり、その解決に米国が先ず成功し、かかる悲劇において学問の勝利が示されたことを余等は如何なる感慨を以て直視しようとするのか。同胞のために泣き、学問のために喜ぶのである。科学者の勝利而して祖国の敗北!
 幾万の生命を一瞬に奪い、更に幾万の人間に恐るべき障害を胎したこの原子爆弾の1発。其の基礎を作ったレントゲン、ベクレル、キュリー、ラザフォード等の霊魂は天に在って果して如何なる感情を起したであろう。中性子を発見したジォリオ キュリー、或はボーア、ドブロイ、プランク等々この方面の開拓に幾多の業績を立てた人等の感懐や如何。人類の福祉のために彼等は研究を真剣に続けたのであった。しかもそれを殺人の具に利用されてしまった。智恵の木の実を食ったアダムの子孫、弟を殺したカインの後裔のやる仕事であるから仕方がない。
 米国の此方面の泰斗ローレンス、又宇宙線のミリカン等の名が思い出される。彼等が此の仕事に参加したであろうか。かねがね学問の上において尊敬していたこれらの学究が、かかる惨酷な科学の濫用に参加していないことを望んでいる。しかし余等同学の原子物理学者がどうせ作った原子爆弾である。彼等は果たして真に殺人者であろうか。余等はそう認めたくない。彼等は鬼手仏心、必ずや戦争の早期終了、世界平和の再現を熱願し、長崎、広島の犠牲において地球上の多数の人命を救わんとする意向を有したに相違ない。このことは色々の声明などに強調されている。余等はこれを信じ、敢て同学の米国物理学者と放射線医学者の苦衷を吾国民に伝えたい。
 すべては終った。祖国は敗れた。吾大学は消滅し吾教室は烏有に帰した。余等亦夫々傷き倒れた。住むべき家は焼け、着る物も失われ、家族は死傷した。今更何を云わんやである。唯願う処はかかる悲劇を再び人類が演じたくない。原子爆弾の原理を利用し、これを動力源として、文化に貢献出来る如く更に一層の研究を進めたい。転禍為福。世界の文明形態は原子エネルギーの利用により一変するにきまっている。そうして新しい幸福な世界が作られるならば、多数犠牲者の霊も亦慰められるであろう。


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患者名簿(125名)省略

注) ホームページ掲載にあたり、本文中の表現の一部について、現代かなづかい、算用数字へ変更しています。

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